離島をフィールドワークする(2)−観光実習I(国内)

島根県隠岐の中ノ島・西ノ島で現地調査を実施しました

 今年度の「観光実習I(国内)」では、9月12日(土)から17日(木)にかけて、島根県隠岐諸島にある知夫里島を中心に現地調査を行いました。前回は「世界ジオパーク」に関する調査の様子を報告しましたが、今回は後鳥羽上皇や後醍醐天皇などの所縁がある「歴史」をテーマに調査した4名が報告します。こちらのチームは知夫里島だけでなく、島前の中ノ島や西ノ島へも足を伸ばし、観光資源を視察したり、現地の方々に聞き取り調査を実施したりしました。
 今回の現地調査は、知夫村役場をはじめ、隠岐諸島の多くの皆さまに多大なるご協力をいただき、実施することができました。ここに記して、心より感謝の意を表します。(森重昌之)

フィールドワークの様子

  • 西ノ島観光協会での聞き取り調査の様子

  • 黒木御所での聞き取り調査の様子

  • 焼火神社

  • 隠岐神社

  • 隠岐神社宮司さんへの聞き取り調査の様子

  • 歴史に詳しい住民への聞き取り調査の様子

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参加学生のレポート

伝承遺跡が多く残る西ノ島での聞き取り調査
 国際観光学部3年 長谷川真保

 昔から遠流の地として知られる島根県の隠岐。今回、私たちは隠岐の島々を周り、歴史的な観光資源を探すために、9月12日から17日まで現地調査を行いました。
 隠岐の島々は西ノ島・中ノ島・知夫里島の主要な3つの島からなる島前と、隠岐の島からなる島後に分けられます。今回は、後鳥羽上皇や後醍醐天皇が配流されたとされている、島前を中心に調査しました。後醍醐天皇が配流されてから島を脱出する約1年間を過ごした西ノ島では、伝承遺跡が多く残っていました。
 現地調査では、西ノ島観光協会の松浦さまにお話しをうかがうことができました。現在、西ノ島には年間8万人の観光客が訪れており、その内訳は団体観光客が約8割、個人観光客が約2割です。また、海外からの観光客もわずかながら訪れており、特に欧米の観光客が西ノ島や島前の自然を見に来たり、釣りを楽しんだりするために訪れているということがわかりました。また、西ノ島はIターン者が多く、後醍醐天皇の資料館の職員の方も定年後にIターンで西ノ島に来たと話しておられました。Iターンで来られる方は60歳以上が多いということもわかりました。また、西ノ島では「西ノ島ガイドクラブ」を立ち上げ、住民がボランティアで観光客にまちを案内する取り組みが行われていることがわかりました。ガイドクラブは現在、約15人で活動しており、後醍醐天皇行在所である黒木御所を案内する専門スタッフや、西ノ島の町並みを散策しながら案内する専門スタッフなど、それぞれの担当のポイントに分かれ、観光案内を行っていることがわかりました。
 また、西ノ島には多くの伝統行事があることもわかりました。「遠流の地」であったため、都とのつながりは大きく、江戸時代には北前舟の風待港でもありました。島前神楽や田楽が現在も伝統行事として残っているのは、都とのつながりがあったためであると考えられます。また、地元の中学生が木材と竹、小麦藁を使用して船をつくり、半紙や折り紙で装飾する精霊流し、通称「シャーラ船流し」も伝統行事の1つとして受け継がれていることがわかりました。このような伝統行事の催行も人口が減少しているため、継続していくことが厳しくなっているのが現状です。伝統行事を継続させていくには、もう少し若い年齢層のIターン者が増加するとよいのではないかと感じました。
 遠流の地とされている島前ですが、私たちが現地調査をしている時も、古くからの伝承遺跡を巡る観光客をたくさん見かけました。このような伝承遺跡は島前にしかない代表的な観光資源となると思います。これらをうまく生かしてPRしていきたいと感じました。また、聞き取り調査にご協力いただきました西ノ島観光協会の方々に感謝申し上げます。

西ノ島の観光資源の価値
 国際観光学部3年 福田 葵

 9月12日から9月17日にかけて、島根県隠岐諸島の知夫里島と西ノ島に行ってきました。期間中に住民への聞き取り調査を行ったほか、西ノ島観光協会の方にも話をうかがいました。知夫里島は島根県隠岐諸島の最南端で、知夫村にある一島一村の小さな島です。島内にはビルや信号はなく、コンビニエンスストアもない自然豊かな環境です。また、島内に発電施設がなく、隣なりの西ノ島から送電線を通じて電気が運ばれてきています。近海で取れるサザエがとても有名なほか、NHK連続テレビ小説「だんだん」のロケ地としても利用されました。
 13、14日の2日間は西ノ島を訪問し、後醍醐天皇が訪れたと伝えられているゆかりのある土地と西ノ島の歴史や文化について調査を行いました。「ふるさと館」では、とても丁寧に西之島について教えていただくことができました。昔からイカ釣り漁がとても盛んに行われています。主な漁獲産品としてイカが占め、年間を通してさまざまなイカがとれ、その中でもスルメイカが大量にとれます。このことから、「イカ寄せの浜伝説」という、西之島に伝わる伝説もあります。これは、由良比女神社の主祭神・由良比女命が芋桶に乗り、隠岐に渡ってくる際に海に手を浸したところ、悪戯者のイカたちが由良比女命の手を引っ張りました。その罪を謝するためと伝えられています。近年ではあまり見られませんが、かつては伝説の通り、神帰祭が行われる11月頃から2月頃にイカの大群が押し寄せていたそうです。由良比女神社の中にもイカが納められています。
 牧畑は昔、離島に生きていくためには自給自足しか方法がなく、平地が少ない西之島では、村落周辺で十分な食糧生産を上げることができず、山地まで開墾し農地を広げていったそうです。しかし、痩せた土地が多く、なかなか育たないため、連作ができなかったそうです。
 西之島は第二次世界大戦で過酷な労働を強いられ、収容所から送られた遺書で有名な山本幡男氏の故郷であることも、今回の現地調査でわかりました。山本氏が亡くなる際に残した4,500文字からなる遺書は、仲間たちが危険を冒しながらも暗記し、日本へ持ち帰り、山本氏の家族へと伝えられました。
 後醍醐天皇に関する資源については、流刑の期間が1年間と短かったため、記録などがほとんど残っておらず、調査が大変でした。島流しになり、たった1年で脱出できたことは、後醍醐天皇の人柄と住民との間の信頼と信用がしっかりと築かれていたからだろうと教えていただきました。今回のフィールドワークで、島根県隠岐諸島には団体観光客が年々増加傾向になっていることもわかり、これからも調査していきたいと思いました。

歴史が刻まれている碧風館
 国際観光学部3年 佐藤研

 私たちは国内実習の授業で、9月12日から17日まで島根県にある隠岐の島(中ノ島、西ノ島、知夫里島)を訪れました。今回のテーマは、謎解きのマップをつくることで、それを用いて観光客に地域を周っていただき、楽しんでいただけるものをつくることです。そして、ジオパークグループ、歴史グループ(後鳥羽上皇班、後醍醐天皇班)に分かれて現地調査を行いました。私たちのグループは、後醍醐天皇にまつわる場所を調査しました。
 後醍醐天皇は、当時の京から隠岐へ島流しされました。そこで、私たちは隠岐諸島の島前にある西ノ島を訪れました。後醍醐天皇はそこで約1年間過ごし、隠岐を脱出して、再び京へと戻りました。私たちは、西ノ島で1年間をどのように過ごし、どのようにして脱出したのかを聞き取り調査しました。その中でも、私は2日目に訪れた碧風館のことについてまとめます。
 碧風館は後醍醐天皇の資料、絵画を展示しているところです。しかし、後醍醐天皇が滞在した期間は約1年と短いので、あまり情報がありませんでした。そこで、碧風館の方の考察を聞かせていただきました。この方は後醍醐天皇の歴史を勉強するために西ノ島にIターンし、観光客に歴史を教えておられるそうです。この方は、後醍醐天皇が西ノ島の住民と協力したことによって、たった1年で隠岐を脱出できたのではないかと考えておられます。なぜなら、脱出した時期が真冬の時期であり、西ノ島は山が険しく、それに後醍醐天皇の監視役が付いていたそうです。それに、隠岐には独特な気候があり、1人で脱出するには厳しいのではなかったかと考えたそうです。後鳥羽上皇は島流しされてから19年間も隠岐で過ごし、そこで亡くなったと言われています。なぜ、島流しされた後醍醐天皇は地域住民と仲良くなれたかというと、杯を交わすなどして仲良くなったのではないかと考えておられました。それに、当時は自分が天皇ではないと思いながら交わっていたので、地域住民が隠岐の脱出を手伝ってくれたのではないかと推測されていました。
 碧風館には絵画がいくつか展示されており、そこの中には地域住民におんぶされている後醍醐天皇の姿があり、その周囲を囲んでいる地域住民の絵画がありました。その絵画こそが、地域住民と仲良くした証拠ではないかとおっしゃっていました。仲良くなっていなければ、暗くて寒い山道をおんぶしてくれるはずがないと考えたそうです。
 今回、お世話になった碧風館の方に御礼を申し上げます。急に訪問したにもかかわらず、約2時間もの間お話ししていただきました。後醍醐天皇がどのような人柄なのかについてよく学ぶことができました。このお話を忘れずに、良いマップをつくりたいと思います。

聞き取りを通して歴史のおもしろさに気づいた資源調査
 国際観光学部4年 谷口真帆

 最近、「謎解き・宝探し・脱出」といった頭脳型参加ゲームがブームとなっており、この頭脳型参加ゲームと地域の観光資源を組み合わせ、地域活性化を試みる地域が多くあります。今年度の観光実習では、「頭脳型参加ゲーム」をテーマに設定し、島根県隠岐諸島の島前地域をフィールドに、歴史資源と自然資源を活用した観光まちづくりを検討することにしました。今回のフィールドワークは9月12日から17日にかけて行い、役場や観光協会、地域住民への聞き取り調査と資源調査を行いました。私は歴史グループに所属し、謎解きゲームのクイズとなりそうな後醍醐天皇や後鳥羽上皇に関わる情報を集めました。このレポートでは、後鳥羽上皇のゆかりの地として訪れた海士町を中心に、調査報告をまとめたいと思います。
 海士町は島前三島のひとつで、中ノ島に位置しています。面積は約33平方キロメートルで、自動車であればおよそ5時間程度で一周できます。まず、私たちは後鳥羽上皇が最初に上陸し、一夜を過ごした三穂神社へ向かいました。この地域は崎という地名で、京の都言葉が現在でも使われています。菱浦港をめざしていた後鳥羽上皇でしたが、悪天候に見舞われ、崎の港にたどり着きました。この嵐の中で詠まれた和歌が「我こそが新島守よ隠岐の海の荒き波風心して吹け」であり、後鳥羽上皇が詠んだ和歌の中で一番有名なものです。後で資料館の方にうかがったところ、後鳥羽上皇が隠岐に来て詠んだ和歌はほとんどがネガティブなものでしたが、これは唯一力強いポジティブなものだそうです。また、この崎に住んでいらっしゃる方は歴史に詳しい方が多いようで、中でも有名な滝中さまを紹介していただきお話をうかがいました。
 途中、カルデラの見えるスポットや神社仏閣、海岸に立ち寄り、最後に向かったのは村上家です。村上家とは、海士地域の有力者であり、後鳥羽上皇の世話をしていたという旧家で、海士や後鳥羽上皇に関する資料が展示されています。ここでは、退職後に趣味でボランティアガイドをするために埼玉県から来たという方に案内していただきました。クイズに使えそうな資料がたくさんあり、事情を説明すると、私たちの取り組みに賛同してくださり、あたたかい言葉をいただきました。
 今回7日間隠岐を訪れ、地域住民の方とお話しする機会がたくさんありましたが、いずれもフレンドリーで、優しく接してくださる方ばかりでした。後鳥羽上皇にも「ごとばんさん」という親しみのあるニックネームを付けて呼んでいたようですし、現在はIターンや移住支援を積極的に行っていることからも、地域外の人を受け入れることにあまり抵抗がないようにうかがえます。今後は現地調査をもとに、地域住民と観光客が歴史資源を用いた頭脳型参加ゲームを検討していきたいです。
 私は昔から歴史が苦手でしたが、今回聞き取りでお話をうかがううちに、歴史を知ることがおもしろくなってきました。最後にこの場をお借りして、お忙しい中を私たちの調査にご協力いただいた隠岐神社の神主さま、また滝中さまに感謝申し上げます。