カンボジアにおける賃金上昇とタイへの出稼ぎ

 私が研究対象としているカンボジアは、タイとベトナムに挟まれたアジアの小国です。2014年における国民一人当たり国内総生産は、ベトナムが約2000ドル(以下、「ドル」はアメリカドルを指します)、タイが約6000ドルなのに対して、カンボジアは約1100ドルで、アジアの中でもとくに「貧しい」国と言えます。
 カンボジアでは国民の多くが農業に従事していますが、過去20年ほどの間に発展してきたのが縫製業、つまり衣服を製造する産業です。ミシンで1着ずつ服を縫う縫製業は労働者を大量に必要とします。そのため縫製企業は人件費の安い国に工場を構えています。カンボジアの労働者の賃金水準は低く、それに目を付けた外国企業が工場をカンボジアに設け、海外輸出向けに服を製造するようになったのです。
 カンボジアの縫製業では法令によって最低賃金が定められていますが、その額は2016年1月に月140ドル(義務的な手当を含む)に引き上げられました。とはいえこの額は日本円でいえば2万円にも達しません。しかし最低賃金は近年急激に上昇してきました。2010年にそれまでの50ドルから61ドルに引き上げられたのち、2013年には80ドル、2014年に100ドル、2015年には128ドルと、ここ数年は毎年20%前後の高い伸びです。
 最低賃金が急速に引き上げられた背景には政治的要因があります。2013年の総選挙で、賃金引き上げを公約に掲げた野党が議席数を大きく増やしました。政権与党はこれに危機感を覚えて労働者寄りの施策を実施しているのでしょう。
 しかし賃金引き上げは基本的には経済的要因に基づいていると考えられます。1つの可能性は、農村部における「余剰労働力」の消滅です。発展途上国の経済発展メカニズムを説明する経済学理論に「二重経済理論」があります。この理論によると、経済発展前の農村には事実上仕事がない労働者が大量に存在していて、都市部の近代的な産業(とくに製造業)はこうした余剰労働力を雇用することで拡大・発展していきます。このとき、農村から都市へと労働者が移動していきますが、そもそも農村では仕事がないので、都市部の企業は賃金を低く抑えたままで労働者を大量に雇い入れることができます。しかし都市への労働者の流出がさらに進むと、農村で人手不足が起こり、賃金を上げなければ企業は労働者を雇うことができなくなります。カンボジアの経済もこの理論に沿う形で変化してきました。農業以外に雇用機会がほとんどない農村部には余剰労働力が大量に存在していたとみられます。その中で、都市部では縫製業や各種サービス産業が農村の労働力を吸収しながら発展したのです。そして賃金が上昇し始めたのは、都市部への労働者の流出が進んで農村部における労働力の余剰が解消しつつあるからではないかと考えられます。
 ただし最近の賃金上昇にはもう1つより重要な要因がありそうです。それは隣国タイへの出稼ぎの増加です。経済の発展水準の違いを反映してカンボジアよりもタイの方が賃金水準が高いので、タイへ働きに行くカンボジア人は以前からいました。それが加速したとみられるのが2012年ごろです。この時期タイにおける最低賃金が1日300バーツへと大幅に引き上げられ(これは月額で約210ドルに相当します)、タイで働くことの経済的な魅力が一段と高まったのです。また、タイへの出稼ぎが増えたことで、先にタイに行っている親類等のつてを頼ってより容易にタイへ働きに行けるようにもなりました。こうしてタイへの出稼ぎはここ数年で急増した模様です。不法就労者も多いため正確な数は把握されていませんが、2014年にタイの役所に登録したカンボジア人労働者だけで74万人にも上ります。これはカンボジアの生産年齢人口(15歳から65歳の人口)の7.5%に相当する規模です。地域や年齢層によってはタイへの出稼ぎはもはや一般化しています。たとえば私が2014年に調査したタケオ州のある村では、20代の村民に限ればその37%もの人がタイへ働きに行っています。そして、このように農村の労働者が賃金のより高いタイへと流れるようになったため、それに対抗する形で賃金を引き上げなければカンボジア国内の工場は労働者を集められなくなってきたと考えられるのです。
 タイへの出稼ぎの増加は、労働者を送り出す世帯にも仕送りという形で大きな収入をもたらしています。上記の村で私が行った調査によると、タイで働く労働者からの仕送りは1人1か月あたり平均で約80ドルにもなります。またこの村ではタイで働いて貯めたお金で建てたという新築の立派な家も目立ちました。
 タイへの出稼ぎは、このようにとくに農村世帯に経済的な恩恵をもたらしていると言えそうですが、長い目でみたとき、カンボジアの経済にとってプラスにはたらくものなのかは、議論の余地があります。第1に、賃金の上昇は雇う側の企業には痛手です。とくにカンボジアの製造業企業の多くは外国企業であり、かつ主力の縫製業は大規模な設備も不要なので、人件費のより安い国へと生産拠点をちゅうちょなく移してしまうかもしれません。たとえば近年注目されているミャンマーは、カンボジアよりも賃金がさらに低いのでそうした移転先候補となりえます。そうすると、カンボジアにおける製造業の発展は足踏みし、国内の雇用機会が拡大せず、人々は海外への出稼ぎにますます依存せざるをえなくなるかもしれません。
 第2に、先進諸国の例をみると、上昇した賃金でも採算がとれるよう、企業が生産性を高めたりより生産性の高い産業が発展したりすることで、国全体の経済発展がさらに進むのですが、カンボジアでそうした産業上の変革に必要な条件が整うにはまだかなり時間がかかりそうです。カンボジアでは道路や港湾、電力網といったインフラストラクチャーの整備が遅れています。高校や大学への進学率はまだ低く、技術者も不足しているなど、人材面も課題です。とくに、タイで単純労働者として働くには高い学歴は不要なので、タイでの就労機会の拡大は若者の進学意欲を削ぎ、人材不足に拍車をかける可能性もあります。
 海外への出稼ぎの増加とそれへの経済的依存の高まりという現象は、実はカンボジアだけでなく発展途上国の多くで近年みられることです。海外への出稼ぎは、労働者とその家族に高い収入をもたらすでしょうが、より大きく長期的な視野でみたときにそれがその国の経済—そしてその国民のくらし—にプラスと言えるのかは、慎重に見極める必要があります。
  • 縫製工場の求人広告(プノンペン市郊外,2014年7月矢倉撮影):各種手当つきで待遇が良いことを強調している