2014.2.17

【経済学NOW1月号】近代日本を支えた島・「軍艦島」

【経済学NOW1月号】近代日本を支えた島・「軍艦島」

 九州に「軍艦島」と呼ばれる、今は廃墟となっている半人工の島があります。この島は正式名称を「端島(はしま)」といい、長崎市内の港から船で30分ほどのところにある島です。近年、この島は平成27(2015)年にユネスコ(国際連合教育科学文化機関)の世界遺産となる可能性が出てきたことから、たびたびテレビなどで取り上げられるようになっており、その存在を知っている人も多いでしょう。

  端島は石炭が採れた島です。少しこの島の歴史をみておきましょう。文化7(1810)年に端島で石炭が採れることが発見され、明治23(1890)年から三菱がこの島と周辺の海底炭鉱から本格的な採掘を開始しました。日本は明治時代初期から急速な産業化を推し進めており、石炭はそれを支えるエネルギーとして必要不可欠でした。日本の主要な炭鉱は北海道と九州にありましたが、端島で採れる石炭は他の炭鉱のものよりも良質、つまり火力が強く、特に強い火力が必要だった製鉄所で使われました。端島は明治時代の拡張工事によって炭鉱としての基礎が整えられ、大正時代から第二次世界大戦期にかけて、石炭の採掘方法の技術革新もあって、出炭量でみて最盛期を迎えました。第二次大戦後もこの島は三菱によって経営され、戦後日本のエネルギーを支える重要な炭鉱として機能しましたが、国のエネルギー政策が石炭から石油に替わったことや、石炭の採掘にかかる費用が大きくなりすぎたことから、昭和49(1974)年1月に閉山されました。

 端島が「軍艦島」と呼ばれる理由は、いうまでもなくこの島の姿が軍艦に似ているからです。すべては少しでも多くの石炭を採掘するためだったのですが、島の面積を人工的に広げた上で荒い波に削られないように護岸をし、炭鉱で働く人たちが住むための高層アパートをどんどん建てていった結果、1920年ごろの端島は、海上の少し離れたところからみると、当時三菱の長崎造船所で建造中だった軍艦「土佐」にそっくりでした。このことから、ある新聞社が端島を「軍艦島」と呼ぶようになり、このあだ名が広まっていきました。
 ところで、この文章を読んでいて、「海底にある炭鉱からどうやって石炭を掘るわけ?」と疑問に思っている人もいるでしょう。簡単に説明しておきましょう。端島からまず地下に500メートルほど地下に向かって縦穴を掘ります。これが「竪坑(たてこう)」です。次に、そこから石炭のある地層(炭層)に向かって横に掘り進みます。炭層から石炭が採掘されると、石炭は坑道内に設置されたトロッコで竪坑まで運ばれ、最後に「ケージ」と呼ばれる簡易エレベーターで地表に運ばれます。
 では、上に書いた作業は基本的にどうやって行われたのでしょうか。答えは「人力」です。時代が下るにつれて人の作業を機械が代わるようになっていきますが、本格的な操業が開始された明治時代から昭和49年の閉山まで、鉱夫が海底よりもさらに深い坑道から石炭を掘り出していました。端島の面積は甲子園球場の面積の2倍弱にあたる6万3000平方メートルで、人が住むためのスペースは採炭に関わる設備が設置された場所を除いた3万7800平方メートルでした。このわずかなスペースに鉱夫やその家族が住む高層アパート、中学校や小学校、プール、病院、商店、娯楽施設が建てられ、もっとも多いときには5259人(昭和34(1959)年)が端島で生活していました。

 鉱夫は高給な上にほとんどお金を必要としない生活をしていましたが、毎日死や危険と隣り合わせの仕事をしており、アパートの部屋のほとんどは内風呂もトイレもなく、共同風呂・共同トイレでした。インフラストラクチャーの面では、端島にはわき水などの水源がまったくなかったため、明治時代から昭和初期の島民は海水から塩を取り除いた蒸留水、次に長崎から船で運んだ真水で生活をしていました。水問題が最終的に解決されたのは、海底パイプを敷設して長崎から端島に直接真水を供給するようになった昭和32(1957)年でした。また、島民の長崎への足となる大型船が島に直接接岸できるようになったのは、ようやく昭和30年代に入ってからのことでした。端島周辺の海は荒れる日が多く、大型船の接岸設備の設置が難しかったのです。
(参考文献、サイト)
・黒沢永紀『軍艦島入門』実業之日本社、2013年。
・「軍艦島」パンフレット(2013年12月の今城ゼミ3年生の長崎ゼミ合宿で軍艦島に行った際にもらったもの)
・阪神甲子園球場(本文中の甲子園球場の面積はこのHPを参照)
http://www.hanshin.co.jp/koshien/qa/answer01.html