2021.3.8

Plaza de Comunicación(プラサ・デ・コムニカシオン)vol.05

 皆さん、こんにちは。2021年2月掲載の「プラサ・デ・コムニカシオン」に続き、第2弾は専門演習1履修者(3年生)による「コラム」をお届けします。
 2020年度、3年生は「今、最も夢中になっていること」、「日本の新型コロナウイルス対策と海外比較」、「アメリカにおける白人警察官による黒人への暴行はなぜ繰り返されるのか」、「日本での誹謗中傷に対する法規制の是非について」、「レジ袋有料化について」、「GO TOトラベルを中止すべきである」といった学生が提案した課題について、遠隔もしくは対面でのゼミにおいて、適宜プレゼンテーションやディベート、ディスカッションに取り組んできました。後期には、学部内のスピーチ・コンテストに向けた予選会や就職活動に備えて「自己分析」を行ったほか、卒業研究執筆への第一歩として、いわゆる「論文」の読み合わせたを行い、さっそく各自でオリジナリティのある論文テーマと参考文献探しに着手し、第1回目の報告を終えたところです。
 今回のコラムでも、段落の分け方や句読点の打ち方、文体、話し言葉と書き言葉を混在させないこと、主語と動詞が矛盾しないように気を配ることや、何よりも言葉を大切に選ぶように指導しました。
 さて、皆さんにお読み頂き、共感して頂けるコラムが見つかれば幸いです。そして、次回のコラムもどうぞご期待ください。
賀川真理

人工知能に自我は芽生えるのか
加藤

 「進化した人工知能が自我を持つ」。AIにまつわる話題になると、このことが必ず議論の対象になる。自我を持つということは、「意識を持つ」ということになる。意識とは、人間と他の動物を比べた時に、もっとも違いが生まれるものである。意識があるから、人は新たな文化やテクノロジーを生み出すことができるのだ。
 では、なぜ人は人工知能に自我が芽生えると思ってしまうのだろうか。AIに関する情報を発信している松本健太郎氏は、「実際に開発しているエンジニアから見れば、自我が芽生える可能性はないに等しいと述べている人が多い」¹という。その理由は、人間がロボットに質問し、それに答えるのは、単に音波をキャッチしているだけだからである。この場合、コミュニケーションを成立させているのは受け手、つまり人間なのである。ロボットとのやりとりを通じて、「自分の意思が伝わった」、あるいは「対話ができた」と受け手が感じることで、初めてコミュニケーションが成立する。このようにロボットに自我を持たせようという試みは、物理的に意識を実在するロボットに実装する実験として、幾度も行われている。
 突然だが、多くの人は「意識」に対して誤解していることがある。それは「意識」に対して、「ある」「ない」で判断することが多い。例えば、アメーバのように完全に意識を持たないものから、人間のように高い自己意識があるものまで、意識にも幅が存在する。そもそも世界に存在する全てのもののなかで、人間が一番自己意識のある生物だとは限らない。そのため、ロボットに意識があるかという質問はそもそも間違っていて、「人間レベルの自己意識はあるのか」という質問がもっとも適切だろう。そう聞かれれば、「まだ人間レベルの意識には達していない」と答えることができる。
 では、人工知能が人間レベルの自己意識に近づけるにはどうすればいいか。その一つの方法として、「シミュレーション」が挙げられる。人工知能が未来に起こることを予測し、何度もシミュレーションを行って自己学習能力を身につけることができれば、本当の意味で人間とのコミュニケーションが可能になるのではないだろうか。
 最後に、近年では技術が著しく発展し、車の自動運転や音声認識をするロボットなど、様々なテクノロジーが進化し続けている。現在は新型コロナウイルス感染拡大が原因で自粛要請が出ていても、外で働かなくてはならない人々が大勢いる。人工知能に自我を持たせることは危険だという声もあるが、人間だけでは手に負えない出来事が数多く存在する今、人間とAIが共存する世界と、今後の人工知能の進化に期待していきたい。

注1)松本健太郎「人はなぜ『人工知能に自我が芽生える』と思ってしまうのか」2017年10月12日(https://www.itmedia.co.jp/enterprise/articles/1710/12/news018_4.html、2021年2月28日参照)。

カラスと梨
M.M.

 「カラスが飛び立ち、梨が落ちる」ということわざが韓国にある。
 カラスが飛び去るから梨が落ちるのか、梨が落ちるせいでカラスが飛び去るのか。いかにも関係がありそうな2つの事柄の間に、必ずしも因果関係があるわけではない、と人間の思考を見つめ直すことを教えてくれることわざといえる。
 ところで、アポフェニア(apophenia)という言葉をご存知だろうか。アポフェニアとは、「無作為あるいは無意味な情報の中から、規則性や関連性を見出す知覚作用」を意味する。たとえ関係のない出来事であったとしても、私たち人間は意味のない情報から意味を見出そうとすることがある。どちらかというとネガティブなニュアンスだろうか。例えば、SNSを利用して多くの人々が情報共有をしている現代社会。新型コロナウイルスが世に拡大し始めていたころ、ドラックストアからマスクが消え、次にトイレットペーパーが品薄になる時期があった。これは意味のない混沌とした情報のなかに秩序を見出して招いた結果だといえるのではないか。私たちは無秩序な情報が混在する世の中で、無意味な情報に惑わされてはいけない。無意味な情報に影響されすぎると生きにくくなるのではないだろうか。
 一方、シャッフル再生される音楽アプリを押した際、ちょうど聞きたかった曲が流れ、心が躍り、良い出来事があったとしよう。このように、関係のない事柄でも意味があるかのように結びつけることで心を満たす場合もある。
 「カラスが飛び立ち、梨が落ちる」。このことわざが意味する教えを見極めることも、時には想像を膨らませ思いを巡らすことも、執筆者は必要な時間だと考える。

感謝を伝えるあいさつ
和田

 世界にはさまざまな種類の言語が存在する。その数、約6900と言われている。実は、これほど多くの言語があるにも関わらず、日本語の「いただきます」と同じような意味を持つ言葉は存在しない。食事の前にかける言葉として、英語では「Let's eat」があるが、これは「食事を楽しみましょう」という意味で「いただきます」とは意味合いが少し異なる。もちろん、食事を楽しむことも大切であるが、では日本語の「いただきます」は何が特別であるのか。そこには、日本人の大切にしている考えが言語に影響を及ぼしているのである。
 食卓に並ぶ食事が出来るまでには、多くの過程が存在する。食材を育てる農家の人、それらを市場やスーパーマーケットで売る人、最後に調理をする人というのが大まかな過程である。日本語の「いただきます」には、そのような食材や食事に関わってくれた人々への感謝の意味も込められている。また、その言葉が国全体で挨拶として確立している。他の言語でも同じように感謝を表す言葉はあるかもしれないが、食前の挨拶として確立している言葉を使用する国はないだろう。
 言語は文化と深く関わりがあり、その言語を使用する人々の考えにも繋がりがある。この「いただきます」という言葉から、日本人が古くから感謝の心を大切にしてきたことが理解できる。また、「いただきます」に限らず、日常生活を営む上で感謝することは大切である。昨今の社会情勢では、直接人と関わることが少なくなってきた現状があるが、その中でも人に感謝を伝えるということは大切にしていきたい。

ダイエットの間違った認識
大山

 女性なら誰もが耳にし、体験するであろうダイエット。日本語ではダイエット=痩せる、というのが一般的な認識だろう。しかし、英語のDIETでは、健康的な食事という意味合いが一般的だ。外国製のサプリメントには、ほぼ必ずDIETARY SUPPLEMENTと表記されているが、これは痩せるためのサプリではなく、健康補助食品としての表記である。
 さて、ここで誤解しないでいただきたいのが、<健康的=痩せる>という意味ではないということだ。体重が落ちれば、見た目もスリムになっていくが、必ずしも身体の状態が健康的であるとは言えない。俗に言う「ガリガリ」とは、不健康そのものと言えるだろう。世の中の女性は、痩せている=美しい、といった認識がある。ではなぜ不健康なのか。
 それは、過度なダイエットや間違ったダイエットなどの情報により、栄養失調や体調不良を招く原因となるからである。ダイエットは流行でもあるため、「○○するだけダイエット」というのがよく流行る。過度な食事制限や偏った摂取により、脂肪だけでなく筋肉も落ちてしまう。そして、基礎代謝・免疫力が低下し、体調不良や病気の原因になる。女性であれば、冷え性や生理不順も引き起こしてしまう。
 このような間違ったダイエットにより、「不健康」な体が出来上がってしまっている。一時的には、健康でなくても痩せることにより快感を得る女性は少なくないであろう。しかし、長期的に考えるとこの状態が何年も続き、次第に身体の内側はボロボロになり、身体中のあらゆる箇所に支障が出てくることに耐えることができるのであろうか。これで、はたして「ダイエットが成功した」と言えるだろうか。この問いかけに自らが気付き、このダイエットは間違っていた、健康的=痩せるではないということを、多くの女性に認識してもらいたいと私は考える。
 今も昔も、痩せるサプリや太らないサプリといった危険なものや、間違った情報がメディアを飛び交っている。この間違った情報に左右されず、正しいダイエットとは何なのか、本来の美しさとは何なのか、自分自身に問いかけてほしい。

日本と外国における教育環境の違い
中川

 日本の教育環境は他の国と比べると、恵まれている方であると考えられる。しかし、日本以外の国も恵まれているとは限らない。日本では、多くの子供が学校に通うことができているが、外国では、学校に通えない子供がいる国もあるからである。
 子供たちが学校に通えない原因は、学校に払うお金が無い、学校が通える場所にないなどさまざまである。では、何故そのような教育環境になってしまったのか。今、日本でも新型コロナウイルスの感染拡大によって教育環境が大きく変わってきており、オンラインでの授業を行っているところが多くある。日本では新型コロナウイルス対策のため、オンライン授業をしているが、ネット環境を良くすることができない、もしくはパソコンやタブレットなどの電子機器を用意できない国や地域もあるであろう。
 そのような場合は、どのような対策をしているのであろうか。こういった教育環境の格差は徐々に広がっていくと考える。今後新型コロナウイルスのような感染症、あるいはこれ以外の要因が出てきたときに備え、必要な措置を考えておく必要がある。
 次に、日本と外国の学校における給食の違いであるが、日本の学校は外国に比べ、比較的良いと言えよう。特に何が良いかというと、世界的に見ても日本の学校給食は栄養バランスやクオリティが高いと言われており、学校の給食は管理栄養士が考えた物が提供されている。しかし、給食は空腹を満たすだけでは無く、給食を通して子供たちに食事の作法、健康的な食習慣、日本の食文化などについて学べる機会でもある。食べることを教育としている国は、さほど多くはないであろう。
 今後も教育について考えることは重要である。

コロナウイルス慣れしてしまった日本社会
谷田

 新型コロナウイルスが流行りはじめた2020年当初、そしてこれまであまり経験することのなかった「緊急事態宣言」が発令された時、私たちにはどのような不安があったであろうか。「外に出るのが怖い」、「人が集まっている場所に行くことが怖い」といった思いがあったはずである。
 しかし今は、去年の「緊急事態宣言」の時と比べてどうか。執筆者は個人個人の周囲に対する意識やコロナウイルスへの関心が、かなり希薄になってきているのではないかと感じている。実際のところ、執筆者自身もそうである。だが、この問題は私たちだけではなく、テレビ業界も同じである。
 新型コロナウイルスが流行り出したときのテレビ番組を思い出してほしい。2020年の「緊急事態宣言」のときは、テレビスタジオに何人か出演させて、残りのメンバーはリモート出演で対策をしていた。また、屋外でのロケ番組を放映していると、右下に「緊急事態宣言前に撮影したものです」と表示されていたり、屋外でのロケ番組そのものが中止になったりしていて、芸能人やテレビ関係者の仕事は減ったと言われている。
 それが、再度「緊急事態宣言」が出た際には、当たり前のように屋外でのロケをしていて、テロップもない番組を多く目にする。このようなことを気にするとキリがないが、新型コロナウイルスに関する慣れや疲れはとても恐ろしいことだということを忘れてはいけない。
 今のコロナ収束へのカギを握っているのは、日本人のみんなであり、ひとりの行動が多くの人の命を守るための行動につながることを改めて認識し、正しい行動をとってほしい。「新型コロナウイルスについて、詳しくわかってきたから」、「私は基礎疾患を持っていないから」、「私はコロナに罹らないから」といった考えは絶対に持ってはならない。
 執筆者は日本全体の団結力を信じて、新型コロナウイルスの収束を待ちたい。

新しい日常 に向けて
行貝

 皆さんは、普段使っている道具がどのような原理や仕組みで動いているかご存知であろうか。例えば、私たちが普段から利用している箸や爪切り、ドアノブなどは、誰もが知っているだろうテコの原理により成り立っている。テコの原理とは、より小さい力でものを動かすことができる原理で、支点、力点、作用点から成る。
 では、電車はどのような仕組みで動いているのか、説明できるであろうか。まず、電車は電気で動いている。具体的には、電車の上に付いてパンタグラフと呼ばれる装置を通じて、架線と呼ばれる線路の上空に張ってある電線からプラスの電流を取り込み、車輪に繋がっているモーターを回して動くのである。その後、電流は車輪を伝わり、レールに流れ、変電所に送られる。身近な例を挙げると、乾電池で豆電球を光らす原理のようなものである。
 執筆者も自分で調べるまでは、電車は「電気で動く機械である」という曖昧な答えしか持っておらず、なぜ動いているのかについて、きちんとその仕組みを知らないまま命を預けて乗っていたのである。
 ここで何が言いたいのかというと、物事の仕組みを知り、理解して利用するのと、ただただ使っているのとでは、同じように見えても大きな違いがあるということである。情報化社会の今だからこそ、物事の本質や原理を理解することで、普段の生活の中にこれまでとは別の世界や新たな発見、楽しみを見出すチャンスがつかめるのではないかと考える。