ゼミ3年生が吹田市内をまち歩き

 2016年5月15日(日)と21日(土)、塩路研究室の3年生が吹田市内でまち歩きをし、フットパスとまちづくりをテーマとしたキャリアゼミの活動を開始しました。今回は、はじめてのまち歩きということで、連携先である吹田歴史文化まちづくり協会の吹田まち案内人の方々にガイドをお願いしました。ゼミ生5人1チームで吹田市内の旧吹田村エリア、江坂エリア、山田エリア、佐井寺エリアを歩きました。今回は、それらのエリアを学生たちがはじめて歩いた感想と発見について報告します。次に、同じチームで、学生のみで同じエリアを自由に歩き、フットパスとしてのルートを考えていく予定です。

千里山東と佐井寺を歩いて
3年生 薗田 輝弥

 塩路ゼミでは、吹田市に重点をおいて観光とより良い暮らしの実現を目指してフィールドワークへ向かいました。ゼミの中で3つの班に分かれて各班が異なる地域を訪れました。私たちは5月15日、21日に山田村と佐井寺へ行きました。私は今回、佐井寺についてまとめたいと思います。
 そもそも吹田市とは様々な路線が走っており、梅田や新大阪、大阪空港から5分から20分で行くことができることから交通アクセスの利便性が非常に良いと言えます。また、北部には万博記念公園やエキスポシティがあり、南部には伝統文化や史跡・旧跡などもあります。千里ニュータウンの再開発や大規模なマンションなども建設され、大学も5つあることから、人々が住むには快適であると考えられます。
 私たちは「吹田まち案内人」ガイドの島本さんの案内のもと、阪急千里山駅をスタートし3時間かけて歩き、阪急関大前駅で解散しました。まずスタート地点である阪急千里山駅前には商業施設があります。その中には千里山コミュニティーセンターがあり、ここは会合や同好会などが開かれています。コーヒーも150円で販売するなど地域の人との交流の場となっています。そのすぐそばには、千里山団地があります。千里ニュータウンよりも早く建設され、最近老朽化により省エネなどを取り入れた次世代のまちづくりをコンセプトに建て替えられました。道路を渡ると、千里山・佐井寺図書館があります。2004年に開館しましたが、図書館の建物の一部は87周年を迎える千里第二小学校の木造校舎を使っているため、非常に歴史を感じる図書館になっています。
 

 しばらく坂道をのぼると、愛宕神社がありました。愛宕神社は少し高いところにあり、そこから見る景色は山々や街を見渡すことができ清々しい気持ちになりました。この神社は他の神社と大きな違いがあります。社殿がコンクリートなのです。火の神様が祀られていましたが、以前不審火により社殿が焼失してしまったため、現在はコンクリートとなっています。周りは入り組んだ細い道や茅葺の民家があります。茅葺の民家は大阪市内では見ることが難しいので貴重な体験をしたと感じることができます。私たちが歩いた日には屋根の葺き替えが行われており思わず見入ってしまいました。

 少し歩くと伊射奈岐神社があります。ここは伊射奈岐を祀っています。しかし、山田にも伊射奈岐神社がありました。山田では伊射奈美を祀っているそうです。また、参道が佐井寺の伊射奈岐神社の方を向いているためこの2社の関係性を伺うことができます。
 次に、すぐ近くの佐井寺に向かいました。ここで私たちのチームはガイドさんも知らないモノを見つけました。それはお寺の入り口の階段横に半分だけ埋まった、文字が描かれている石です。これが何を表しているのかは分かりませんが、道の整備のときに半分だけ埋まってしまったと考えられます。「吹田の中心(へそ)」と言われる意味をもつモニュメントがある佐井寺南が丘公園を抜けて、最後に関西大学構内にある博物館「簡文館」に行きました。銅鐸や石枕など貴重な展示品が数多くありました。また博物館前には高松塚古墳の壁画が再現されています。パンフレットもあり、レプリカは見やすいように目線に合わせた高さで展示されていました。
 実際に歩いてみて、千里山と佐井寺の古くからの歴史と1970年前後の開発、さらに最近の開発による変化を感じることができました。千里山と佐井寺は、交通の便や治安もよく、非常に住みやすいように思いました。このようなことを発信し、さらに地域が発展していくように私たちの活動で貢献したいです。

歴史あふれる山田まち歩き
3年生 舟引 千春

 5月15日に吹田市山田のまち歩きを行いました。13時に阪急山田駅に集合して「吹田まち案内人」の長岡さんと共に出発しました。ここでは、このまち歩きの中で印象に残った点について歩いた順に報告します。
 歩き始めは住宅地で人工的に作られた道でした。南に向けて多くの道が通っており東から西に路地のような狭い道が魚の骨のようにありました。しばらく歩いていくと王子池が見え、次に山田三ツ辻道標がありました。これは小野原街道と山田街道の分岐点を表しています。旧道のなごりの道標に触れることができ、これからのまち歩きについて期待が膨らみました。道標を過ぎてからは昔の建物や町並みが広がる地域に入っていきました。
 まず目に留まったのは、昭和20年に軍事的目的として作られた真っすぐな道路です。戦時中、現在あるガンバ大阪のスタジアムの地下に弾薬庫がありました。この弾薬庫を都会に運ぶために真っすぐな道路を作り運びやすくしたそうです。とても長い距離を真っすぐな道路が通っており、その風景に圧倒され、戦時中の景色が想像できました。

 タイムスリップをしたかのような昔の街並みを進んでいる最中、昔の建物の屋根の下に「水」と書いたマークや家紋が描かれている家がたくさんあることに気づきました。不思議に思いガイドさんに尋ねたところ、昔は木造建築ばかりで一軒が火事になると隣に燃え移り大火事になったため、それを防ぐために、昔の建物には「水」などのマークが火事にならないように願って描かれていたそうです。
 細い路地を歩いていくと、一般の家のすぐ横に石仏群という13体の小さな石に描かれた仏様が並んでいました。昔この場所はお寺でしたが、現在では一般の家になっています。豊臣秀吉の時代、大阪城を築城しているときに石をいろいろな場所から集めていました。この寺の住職はこの石仏を持っていかれないように、土に埋めたそうです。それを掘り出したものが石仏群です。見ていると、この辺りに住んでいた人々が石仏を大切に思う気持ちが伝わってきました。

 次に訪れたのは、フルーツ餅が有名な松竹堂です。疲れもたまってきたので、ここで少し休憩しました。フルーツ餅はパイン・みかん・メロン・マンゴー・桃などがありました。私はみかん餅を食べました。みかんの形をした餅で、中にみかんが入っていて、とても水々しかったです。おいしい餅だったので、疲れが一気に吹き飛んでいきました。
 また歩き始め、旧竹中馬上門・紫雲寺を訪れ、山田で正月に賑わう山田伊邪那岐神社を訪れました。敷地も広く大きな神社でした。名前は伊邪那岐神社ですが、祀られているのは伊邪那美です。お守りを買う場所もあり、賑わう景色が想像できました。
 伊邪那岐神社から安養寺に向かう途中、山羊を放し飼いしている保育園がありました。私たちは立ち止まり山羊に注目しました。昔の建物をそのまま保育園として使用しており、とても趣深い保育園でした。また私たちが不思議に思ったのは、山羊を放し飼いしているのに名前は「パンダ保育園」であったことです。山羊のイメージが強くて「パンダ」という名前は疑問にすら感じました。

 私がもっとも気に入った場所は、安養寺です。民家と民家の間に、木のトンネルを通るように寺に向かう階段がありました。階段を昇り始めると、どこか違う世界に向かっているような感覚でした。江戸時代は寺小屋、明治時代は小学校として使われていたそうです。また周りのマンションが見えないくらい木がたくさん植えられており、桜やもみじ、紫陽花などもありました。
 853年に建てられた山田村で最古の寺、圓照寺にも訪れました。私が興味を持ったのはこの寺で有名な権六踊りです。権六踊りとは、大工権六が惚れていた村の娘が建設中の圓照寺の和尚が好きだと知って建設をやめてしまい、建設を再開してもらうために、村の娘が和尚に宛てたラブレターを権六に渡したところ、権六が喜んで寺を作り上げ、完成したのを喜んで称賛しているときに池に落ちた様子を踊った踊りだそうです。ぜひ権六踊りを見てみたいと思いました。
 まち歩きを行うことで山田村の魅力をたくさん見つけることができました。新しい街並みや古い街並みがあり、タイムスリップしたような感覚になりました。またあまり休憩場所がなかったため休憩をどこですればよいか、他にも行った方が良い場所などを見つけるために次回、私たちだけで実施するまち歩きで考えていきたいと思います。

まち歩きで見つけた可能性
3年生 山口 実土里

 私は、吹田市のフットパスを利用した地域づくりのため、江坂エリアを訪れました。江坂には一度訪れたことがあるのみで、まち歩きをしたのは初めてのことでした。「吹田まち案内人」であるガイドの古谷さんの貴重なお話を聞きながら、グループの仲間とともにさまざまな江坂の魅力や課題を発見することができました。中でも特に印象に残った点について報告します。                
 まずは、江坂駅のすぐ近くにあるウエストサイドストリートです。ここには飲食店や病院、娯楽施設などが密集しており、非常に活気づいてました。駅前の繁華街であるにもかかわらず、ポイ捨てなどのゴミがほとんど見つからなかったことや、無断の路上駐輪を防ぐための駐輪スペースが設けられていたことから、クリーンで整備が行き届いている印象を受けました。また、江坂駅周辺は路上喫煙禁止地区となっており、過料2千円が科せられるそうです。このことからも、積極的に環境づくりに取り組んでいる地域であるといえそうです。

 つづいては、ダスキン本社ビルのテラスについてです。同ビルはバブル時代を思わせる豪華な造りで、岡本太郎氏の陶壁画である「みつめあう愛」がありました。テラスには何組ものイスとテーブルや広いステージがあり、駅前なのにもかかわらず涼しい風の入る落ち着いた空間で、“都会のオアシス”とも言える場所でした。イベントやカフェスペースとしての利用など、使い道の余地は多く残されていると感じました。
 最後に紹介するのは垂水神社です。江坂から少し離れた阪急豊津駅の周辺にある、立派な鳥居が印象的な神社でした。「石ばしる垂水の上の早蕨の萌え出ずる春になりにけるかも」という志貴皇子が詠んだ垂水の滝が有名な場所で、吹田三名水のひとつとして知られています。その石碑の俳句について興味を持ったので、調べてみました。垂水(たるみ)とは地名ではなく、高いところから垂直に落ちる水=滝のことで、早蕨(さわらび)とは芽を出したばかりの蕨(わらび)のことだそうです。岩より落ちる滝のほとりに早蕨が芽を出す春になったなぁと、待ちわびた春の訪れを歓迎するような詩であることを知りました。
 

 垂水神社の他にも、いくつかの神社やお寺を訪れました。千里寺では、実際に中を見学させていただきました。日本的な格子の天井に、落ちてきそうな程大きい西洋的なシャンデリアが美しかったです。千里山神社は、丘陵地の頂上にある小さな神社で、吉本興業とゆかりがあることから、芸能人もお忍びで訪れることもあるそうです。
 このように、江坂エリアには歴史的な場所や活用の可能性を感じる興味深い施設が数多くあることを知りました。これらの魅力を発信していくことができれば、フットパスに活用できるのではないかと感じました。次回、私たちだけで探索するまち歩きでも、活性化につながる新たな発見をしたいです。

江坂まち歩き
3年生 徳永 豊

 今回のまち歩きでは、江坂エリア、垂水エリア、関大・千里山エリアと大きく分けて三つのエリアを吹田まち案内人の古谷さんのガイドで歩くことができました。
 最初の江坂エアリアでは、西側地区のエスコタウンを中心に歩きはじめました。エスコタウンでは都会的なにぎわいを見せていましたが、少し奥に入ると古い集落の名残があり、新旧入り混じった地区になっていました。江坂の駅前では大同生命ビル、江坂公園など近代的な建物が立ち並びオフィス街、繁華街としての賑わいもみせていました。そのなかでもエスコタウン付近にあった豊津公園にある岡本太郎デザインの元カーニバルプラザの看板とダスキン本社ビルの二階にあった岡本太郎の壁画「みつめあう愛」が印象的でした。

豊津公園も広々とした空間で、喫煙所などもしっかり設備されており環境の良い公園になっていました。ダスキン本社ビルも市民が出入りできる広々とした自由空間になっていました。
 江坂公園では、花と緑の情報センターや図書館などがあり、東側にはキャットミュージカルカレッジや劇団ひまわり、クレヨンハウスなどがあり、多様な世代が楽しめる憩いの場になっており、ちょっとした休憩には最適な場所であると思いました。
 吹田三名水である垂水神社では志貴皇子が詠んだ詩の垂水の滝などもありました。650年ごろの干ばつの時に難波長柄豊崎宮に垂水の水を高桶で送ったと伝えられています。大都会のすぐそばにあることを忘れさせるような雰囲気で、少し神秘的な空間になっていました。
 関大・千里山エリアでは、優れた建築群・緑豊かなキャンパスの関西大学とロンドン郊外の田園都市レッチワースをモデルに開発された千里山西の方面を散策しました。関西大学では広いキャンパス内を歩き、高松塚古墳のレプリカが展示されている「あすかの庭」や大学博物館を見学しました。

 次に訪れた千里寺は、昭和3年に京都御苑内で行われた昭和天皇即位の御大典のため建てられた饗宴場の一部を移築したもので中も昔のまま大きなシャンデリアが残っていたり、ほとんどそのまま保存されている立派な建物でした。
 このまち歩きを通してわかったことは、私が思っていた江坂は飲み屋街ぐらいしかないイメージでしたが、繁華街から少しはずれたところに綺麗な公園や寺などがあり、自然も多くあるということです。今回のまち歩きでは、ガイドの古谷さんが行くところどころでその場所の歴史や文化の説明をわかりやすく話して下さり、地元の人でも知らない詳細な情報まで教えていただきました。歩くルートも事前に調査し考えて下さったことに感激しました。そのため、まち歩きはとてもスムーズに進めることができました。次は自分たちでフットパスとしてのルートや休憩場所、面白いポイントを考えながら、まち歩きしてみようと思いました。

吹田での新発見
3年生 中尾 美帆

 5月15日日曜日に旧吹田村のまち歩きを行いました。約6?の距離を「吹田まち案内人」ガイドの丹羽さんに案内して頂きながら、旧吹田村の散策を行いました。その中で私が注目した5つの場所についてその特徴と感想をまとめます。
 1つ目はメイシアターです。ここは演奏会や発表会などを開催することが出来るホールがある施設です。様々な催し物に使用することが出来る施設であるため、とても回転率が良いそうです。元はアサヒビールのグラウンドでしたが、アサヒビールが経営危機に陥ったため、吹田市が買収したそうです。老若男女問わず利用することが出来ることがとても良いと感じました。

 2つ目は泉殿宮(いづどのぐう)です。別名、吹田宮(すいたのみや)とも言われています。建築様式から1657年頃のものと見られています。水不足に悩んでいた吹田の町を建速須佐之男大神が訪れ、祈願したところ、水が噴水のように湧き出たことが名前の由来であると言われています。また1889年にアサヒビールがこの水をドイツのミュンヘンに送ったところ、ビールに適する水だと太鼓判を押されたそうです。現在その湧水は止まっていますが、吹田にとって水は大切なものであり、フットパスのテーマの一つにもなると考えました。

 3つ目は旧西尾家住宅です。江戸時代に吹田村の仙洞御料の庄屋をつとめたこの地は近代和風建築の建物として平成21年に国の重要文化財に指定されました。ここの住宅の管理費は吹田市民の税金で賄われているそうです。見学を通して昔の家の構造や建て方を知ることが出来ましたが、重要文化財になっている割に、外国語で書かれた展示物やパンフレットがないという外国人への対応があまりなされていない点は、日本の重要文化財を海外の人に知ってもらうという点で気になりました。
 4つ目は高浜神社です。奈良時代に吹田の大宮と記録されていて元は継田(すきた)神社など様々な名前で呼ばれていました。2度の大火事で全焼しましたが、再建されています。大坂城を築く際にこの神社にあった松が全て使われましたが、1本だけ残った古株が神木「鶴の松」として保存されています。
 5つ目は旭通商店街と「さんくす」広場です。商店街は東側と西側に分かれており戦前は町の人で賑わっていたそうです。しかし、第二次世界大戦の際、西側の人々は地方に疎開していきました。現在は八百屋や服屋がありますが、シャッターを閉めたままの店が増えてきているため賑わいがなくなってきたと丹羽さんはおっしゃっていました。「さんくす」広場はJR吹田駅の前に広がっています。名前の由来はThanks(ありがとう)とSun(日)+市の木である楠(くすのき)という2つの意味があるそうです。商店街、広場ともに人の行き来が多い場所であるので、商店街で買ったものを食べたり、休憩出来たりする場所や空間が広場にあると良いと感じました。
 旧吹田村を散策してみて、住宅が建ち並ぶ中にも伝統的な建造物や神社、商店街があることが分かりました。大通りから細い道に入ると、静かな住宅街に子どもたちの声が聞こえているのどかな風景が広がっていました。また高齢者が集まる施設や親子で遊べる公園があったので、地域の人々に寄り添っている町だと感じました。今後、吹田市でフットパス探索を行っていく中で、年齢や性別、目的に合わせたフットパスのルートを考えたいと思います。そして吹田のフットパスのことをより多くの人に知ってもらえるような取り組みにしていきたいと思います。

旧吹田村の街歩き 3年生 唐崎 隼

 私は、5月15日に吹田市の旧吹田村地域でまち歩きした感想についてまとめます。当日は、阪急吹田駅を出発し豊津駅まで歩くコースでした。距離的にはそれほど長くなかったのですが、ガイドの丹羽さんに案内してもらい20か所近い歴史ある場所やものについて説明していただき、それらと町との文化的な関わりを知ることができました。ここでは、そのなかからいくつかを報告します。
 まず、阪急吹田駅からほど近い泉殿宮(いづどのぐう)です。ここは、水に関する職業や芸能関係の信仰が厚く、水商売を発展させてくれる神様として信仰を集めている神社です。この湧水を調査したところ、ミュンヘンにて「ビール醸造に最適」と評価され、アサヒビールが泉殿宮のすぐ傍に建てられました。湧水はニュータウン建設や道路工事のため、水脈が下がり昭和30年代に枯渇しましたが、境内に当時湧水がでていた「泉殿霊泉」は今も残されてます。この話を聞いて、ここは吹田の歴史に大きく関わっているように感じました。アサヒビールの工場はその規模の大きさから吹田市の財政に大きく影響していると思うので、泉殿宮の存在はあまり知られていないのですが、大変大切なものと考えます。

 次に、旧西尾家住宅です。ここは単純に建築物として歴史的に価値があるだけでなく、有名な茶匠、建築家、造園家、学者がこの建物に関わり、古典から近代の芸術文化を広く受け入れていることが、さらに文化的な価値を高めています。実際に見て印象に残っている点は、まず茶室の多さです。一軒の中に4か所もあり(写真右はそれらの茶室の1つ)、それぞれ大きさやデザインが異なり、茶道に対するこだわりや熱意を感じました。また、庭には待合室があり、4人が座っても目が合わないような配置になっており細やかな配慮を感じました。離れは主屋と違い西洋的なデザインが内部に取り入れられていますが、外観からは全く分かりません。他にも、吹田で最初の電話や当時のブレイカーなど、明治時代の生活の痕跡も見ることができる非日常的な空間でした。
 最後に、吹田の渡し跡です。今は周りが住宅街になっていますが、江戸後期には回漕業を営む家が連なり栄えていたそうです。その風景を描いた絵が、阪急吹田駅の地下通路に描かれています(写真上)。他にも高浜神社や常光円満寺、浜屋敷など歴史的な建造物が数多く残っていました。
 旧吹田村のまち歩きをしてみて、最初はなぜ交通網も発達している吹田でわざわざ歩くのだろうと思っていましたが、実際に歩いてみると訪れた場所ごとに昔の名残りを発見でき、自分の足で歩き確かめる大切さが分かりました。しかし、今回のまち歩きのコースでは、休憩できるポイントが少なく、体力的に結構辛い部分があったので、これからもっと深くまち全体を知り、休憩ができ、ゆっくり地域を学びながら歩けるようなコースを見つけていきたいです。