2021.9.17

国際観光学部 塩路研究室3年生が吹田まち歩き4

塩路ゼミ3年生が旧吹田村を2回目フットパス

2021年7月4日に、国際観光学部 塩路研究室3年生が旧吹田村エリアで2回目のまち歩きを実施しました。今回は、その様子と感想を報告します。

魅力あふれる旧吹田村

3年生 荒川 和音

 7月4日に2度目のまち歩きをするために旧吹田村エリアを訪れました。1度目と異なり自分たちでまち歩きをし、調査することでたくさんの発見をすることが出来ました。私たちは2チームに分かれ、旧西尾家住宅(吹田文化創造交流館)を案内してもらうグループと私が調査した、片山公園から片山神社、旭通商店街をまち歩きするグループで調査を行いました。今回はこの片山公園、片山神社、旭通商店街について報告します。
 初めに、片山公園を紹介します。片山公園には、地下水を利用したせせらぎやジャブジャブ池、桜や平和のバラ園など、見どころ満載でした。ほかにも中央図書館、片山市民体育館、市民プールなど多くの公共施設が集まる、健康と文化の拠点です。特に私が印象に残った平和のバラ園は、訪れた際少し枯れてしまっていましたが、バラ園が作られた背景に感銘を受けました。広島で被爆者の治療に尽力した広島市名誉市民の医師が「地上をバラでいっぱいにし、争いのない世界を」との願いを込めて作られたそうです。バラ園の広さは約800平方メートルで7品種約80株のほか、約50種類のバラ約320株が植えられています。バラ園は特に5月中旬が見頃なので来年は満開のバラを見に行きたいです。
 次に片山神社は、大和時代から平安時代頃、一帯が丘陵地になっており、良質の粘土が大量に出土し、人々は須恵器や瓦を作っていました。この地で焼き物に携わる人たちが「陶芸の祖神」であり、方除け、災難除け、火防の守護神である素戔嗚尊を祀り崇敬を集めていたのが、当神社の創始と言われています。また正月には、地元の方が初詣に訪れとてもにぎわうそうです。片山公園の隣にあるので散歩ルート帰りに少し通る方も多く、地元の方に愛されている神社であることが分かりました。
 最後に、旭通商店街は、1924年に吹田駅から現在地に移転された際、駅前から高浜神社前へ通じる道路が出来、その両側に市場、旅館等ができて旭通商店街に改称されました。また、JR吹田駅前商店街として50店舗程度で発足以来80年が経過し、約600mの道路沿いに100以上の商店が立ち並ぶ地域最大の商店街です。私が訪れた時は、コロナウイルス感染症の影響もあり、多くの店のシャッターが閉まっていました。しかし、商店街と店の看板の雰囲気から、昔から経営している本屋や豆腐屋などもあり、鶴橋の商店街に少し似ていると感じました。
 2度目に訪れた旧吹田村には、住宅街の中に長年の伝統がある寺や商店街があり、普段訪れることのなかった吹田の別の魅力を感じることが出来ました。また、まち歩きをしてマンホールがお洒落なことに気が付きました。後で調べてみると、吹田のマンホールには古代から市民に親しまれているクスノキと中心に太陽の塔が描かれた大阪万博をシンボルにデザインされたマンホールや阪急電鉄の北千里駅、山田駅、吹田駅、南千里駅、北千里山、関大前駅、豊津駅の計7駅がデザインされたマンホールなどがあることを知りました。下水道事業に興味を持ってもらうとともに、吹田の魅力を発信しようと考えられた企画で、とても興味深く感じました。吹田以外にも身近に描かれたマンホールがあるのではないかと思い、普段からに注目して探してみたいと思います。
 梅雨の雨でまち歩きには適しない天気でしたが、雨だからこそ魅力的に感じる寺や公園、そして旧吹田村エリアは雨の音を聴きながら歩くのも気持ちがいい町だなと思いました。最後に、吹田市には万博公園をはじめ、私たち外から来た人間には全く知られていない魅力が多く、他市がうらやむほどの資源をたくさん持っているので、もっと多くの人に吹田の魅力を知ってもらいたいと思いました。今後、吹田市が地域観光の情報をどう発するか注目していきたいです。

旧吹田村の交流の場

3年生 横井 香穂

 私たちは、1回目のまち歩きで吹田歴史文化まちづくり協会の丹羽さんから教えていただいた重要文化財である「旧西尾家住宅(吹田文化創造交流館)」について調査しました。旧西尾家住宅は予約制で庭や建物を観覧することができました。室内には入れませんでしたが、ガイドさんの説明もあり、旧西尾家住宅について詳しく知ることができました。
 旧吹田村は、かつて「都呂須町」であり船着場を意味する地名でした。今でも古く、重厚な造りの民家が並んでいます。その中で高い塀に囲まれ、広大な屋敷を構えているのが旧西尾家住宅です。ここは江戸時代の有名な庄屋でした。表門を抜けると目の前に主屋があり米蔵、大きな庭のような積翠庵、離れ西棟、離れ東棟があります。
 主屋の入り口は、年貢を納めにきた人など身分の低い方が入る所と、特別の日や賓客を迎えるときに使われる格式高く作られた玄関がありました。計量部屋は献上米の計量や品質検査がおこなわれた場所です。大正8年の天皇家の儀式の一つ新嘗祭では西尾家の田んぼが選ばれ、その時の作業がこの計量部屋で行われていました。今ではマスクは当たり前のようになっていますが、作業は天皇に納めるということもあり、新嘗祭の時は白い布をマスクのように使用していたそうです。計量部屋の床は「やはず張り」にレンガが敷き詰められています。これはレンガ造りのアサヒビールを見て、このようなレンガを使用したそうです。主屋の玄関に様々な人が訪れ、旧吹田村の交流の場になっていたのだろうと感じました。茶室や離れには西(和室)棟と東(洋室)棟があり、茶室は全部で5つあり様々な人がきれいな庭の中で茶会をしたそうです。洋室には、ビリヤード台やステンドグラス、洋風な電気などレトロで海外要素を取り入れたおしゃれな場所でした。
 ガイドの方によると旧西尾家住宅は、建物の老朽化が進み、地震が起きると危険な状態なため、室内の見学は中止しているようです。かつては行っていたひな祭り、JAZZコンサートやお茶会などのイベントは中止されているそうです。跡取りがいないことから、建物を維持することが難しく、庭の手入れや掃除はしていても、地震や災害により建物が危険な状態になります。現在、耐震の工事を行うための資金集めや、重要文化財をできるだけ昔の状態のまま残すための計画をしているそうです。旧西尾家住宅で使われている畳や柱などはとても高価で今では手に入れることが難しいものが多いそうです。昔からあるものや建物を残す難しさと今まで残っている素晴らしさを感じました。工事が始まると入ることができるようになるのは10年後になるそうです。耐震工事を行い、安全で昔のように様々な人が訪れるような建物になればいいなと思います。

旧西尾家住宅の現状と今後

3年生 宮原 帆乃香

 私たち塩路ゼミは7月4日に吹田市の旧西尾家住宅(吹田文化創造交流館)を訪れました。旧西尾家住宅とは、江戸時代の旧吹田村の仙洞卸料の庄屋としての役割を果たした場所であり、他の庄屋と比較しても格の高い庄屋として有名でした。また、家屋全体が格式高く作られており、江戸時代には多くの文人が訪れ、明治以降にも音楽家の貴志康一や日本の建築家である武田五一などの著名人との交流が行われていた場所でもありました。しかし、14代当主が亡くなってから現在に至るまでの間に、一時は西尾家を取り壊して土地を売る話も出たそうです。「旧西尾邸保存活用会」が発足され、吹田市民を中心に保存活動が行われました。保存を求める約4万人の署名が集められ、現在では吹田市が管理を行い、定期的に建物の修理や建て替えを進めた結果、現在の吹田文化創造交流館という名で旧西尾家住宅が残ることになりました。
 旧西尾家住宅の敷地内は、積翠庵、主屋、離れ、庭の四つに分類されます。積翠庵は京都茶道藪内家の茶室燕庵写しと雲脚写しを、水屋を中央に介して繋ぎ一棟の茶室としたものです。主屋は居住部、玄関部、計量部屋部の三棟で構成されています。家屋全体の中でもこの主屋は最も格式高く作られている場所です。計量部屋部の床は堺で作られた煉瓦を使用しており、一つひとつが手作りでとても凝っています。離れは西棟と東棟で構成されています。前述した近代日本を代表する建築家の武田五一による設計を基に作られた建物です。ビリヤードが置かれている部屋でもあり、全体的に西洋風に作られているため、別名洋風棟とも呼ばれています。庭は25個もの燈籠が置かれ、他にも昔のトイレが設置されていました。緑が多く様々な植物が植えられている場所となっています。旧西尾家住宅は、近代の生活や文化が取り込まれた和風住宅建築として優れたものです。
 私はこの場所を訪れる上で、旧西尾家住宅は吹田市民にとってどのような場所であるのか、普段どのような人がこの場所を訪れるのかの2つの疑問を抱いていました。実際に訪れて案内人の方に話を伺ってみると、まず1つ目の疑問に対して、以前は表門を完全に開放しており、旧西尾家住宅の周辺に住む住民の散歩コースとして親しまれていた場所だったことがわかりました。しかし、現在の旧西尾家住宅は築年数の長い建物が集まっているため、耐震に対して弱く、以前のように一般住民が自由に行き来できるような場所ではなくなってしまいました。かつてのようなことはできませんが、きっと吹田市民の誇りとなるような場所であるように感じます。
 続いて2つ目の質問に関して、旧西尾家住宅を訪れる多くの人が古い家屋に興味のある年配の方や建築の勉強をしている学生や教授のようです。人々の娯楽としての観光資源というよりは、スタディ・ツーリズムのような勉強を兼ねた地域資源であると感じました。現在は5人という定員に対して1人の案内人の方と共に散策する形態となっています。以前はひな祭りの時期にお雛様を飾って地域の人々が集まる場や、大学の教授を招いて植物や星に関する講演会を行う場としても利用されていたようです。また、旧西尾家住宅内における全ての建物の修理が10年後に終了するそうなので、将来以前のように様々なイベントを開催できるような場所となります。
 私は、今回、旧西尾家住宅を訪れて、案内人の方が熱心に話す様子が心に強く残っています。建物が国の重要文化財、庭園は国の登録記念物となっていますが、管理が滞っている状態であり、日々の掃除にとても苦労しているようです。古い家屋のため埃も落ちやすく、虫に食われている部分も多くあるそうです。そのような中でも時折訪れる学生や年配の方たちの為に懸命に清潔な環境を保っていることが分かりました。初めて訪れた場所でしたが、とても立派な家屋に圧倒されました。当時の文化や生活が目の前に浮かび上がってくるように感じる場所でした。勉強を兼ねたスタディ・ツーリズムとして活用される一方、修理が完全に終了した後は再び地域の人々が交流できる場所として利用されることが増えることを願うばかりです。私もその様子を見に実際に10年後に訪れてみようと思いました。

歴史であふれる旧西尾家住宅

3年生 平山 聖翔

 7月4日にフィールドワークとして旧西尾家住宅(吹田文化創造交流館)という国指定文化財になっている屋敷を訪れました。今回はそこで学んだこと、感じたことに関して述べたいと思います。
 旧西尾家は、1706年から仙洞御料庄屋を勤めたとされており様々な伝統や茶の湯精神を感じることができる屋敷です。伝統を受け継ぎながら明治中期から昭和初頭にかけて建築し整備されたのが、現在伝わる建物や庭園で、実際に目にすると何百年の昔に作られたとは思えないほど高い技術で作られており、その美しさに圧倒されました。
 はじめにガイドの方が映像と西尾家住宅の全体を再現した模型を元にわかりやすく説明してくださるところから始まりました。その 説明を受けていた「計り部屋」と呼ばれる部屋の床がレンガでできており、それは同じ吹田市にあるアサヒビール吹田工場が当時では珍しいレンガで作られた建物であったことからそこに設けたと言われています。その他にも数奇屋建築の研究や西洋の建築様式を取り入れたことで知られる建築家の「武田五一」や約2500種類の植物に命名し日本植物分類学の父と呼ばれた「牧野富太郎」、ヨーロッパに留学し作曲・指揮者として名声を上げ将来を嘱望された「貴志康一」など歴史に名を記した様々な天才達が西尾家と縁をもっており、吹田市の歴史を語る上で旧西尾家住宅は外すことができない場所であると思いました。
 説明を一通り受けたあとは離れや庭園を実際に歩かせていただきました。外にも様々な特徴をもった建物がたくさんあり、その中でも私が特に興味をもったのが「洋風棟」です。当然、旧西尾家住宅の全体は畳の部屋や茶室など和風な作りになっているのですが、この洋風棟は天井の格間が広く、白漆喰壁に腰板を張るだけの簡素な洋風の空間となっていました。さらに、ビリヤード台が置いてあるなど他とは違う独特な雰囲気を感じました。そして庭園は面積が約300坪あり敷地の北西隅、主屋の南西を占め、南は離れを画する塀によって仕切られているのが特徴です。
 もう一つ私が興味を持ったのは「四腰掛」という桟瓦葺にしてガラス窓をはめるなど、他とは異なる手法で作られた部屋です。この部屋の利用目的は待合室、休憩室というような感じだったとガイドの方は表現されていました。部屋の四つ隅に椅子が卍型に置かれているのが特徴です。その理由としてはその椅子に座っても卍型になっているためお互い顔を正面で合わせず会話でき、よりリラックスできるということです。そのとても理にかなった理由を聞き、待合室ひとつにもそのような工夫がされていることに感心しました。
 多くの歴史と特徴のある旧西尾家はとても魅力的で学びの場として素晴らしかったです。しかし、大規模修繕工事の影響で屋敷等の室内は見学できなかったことが残念でした。建物や庭など、旧西尾家住宅は細かい何気ないところにも歴史やエピソードがあり、歴史にあふれた大切な場所であると感じました。

旧吹田村の魅力

3年生 國方 勇成

 7月4日に旧吹田村チームで二回目のまち歩きをしました。一回目のまち歩きでは時間の都合上行くことができなかった場所を訪れました。まず初めに、阪急吹田駅を出発して、一回目のまち歩きの時に、まち案内人の丹羽さんが口頭で教えてくださった片山神社と片山公園に行きました。片山神社は、陶芸の祖神であり、方除け・災難除け・火防の守護神である素盞烏尊を祀り崇敬を集めていたのが、片山神社の創始です。片山神社は厄払いでも有名で、昔から災難が多く、行いを慎む年と言われ人生の節目でもある厄歳の方が、神社に参拝して、災い福に転ずるために厄除のお祓いを受ける神社でもあります。そのため、神社には厄払いだけでなく、方位除けなどの様々なお守りがありました。片山神社は、地域の人たちの心のよりどころであるため、この地域になくてはならない場所であると感じることができました。
 片山神社を参拝した後、すぐ近くにある片山公園に行きました。片山公園は、子どもたちに「タコこうえん」という名でおなじみの、ピンクのタコ型滑り台が大人気です。ほかにも地下水を利用したせせらぎやジャブジャブ池、桜や平和のバラ園など、みどころもたくさんあります。私たちが訪れた時には見ることができなかった平和のバラ園は、広島で被爆者の治療に尽力した広島市名誉市民の医師、故原田東岷さんが「地上をバラでいっぱいにし、争いのない世界を」との願いを込めて、世界の人々に広島の名をつけた新しい品種のバラ作りを呼びかけて作られました。中でも「メイ・ピース」は、平成9年(1997年)に広島から贈られたバラの新種に公募で命名し、このバラ園に植栽したものです。バラ園は広さ約800平方メートルで、平和のバラである「レッド・ヒロシマ」、「メイピース」、「ヒロシマ・チルドレン」、「ヒロシマ・スピリット」、「ヒロシマ・アピール」など7品種約80株のほか、「天津乙女」、「あけぼの」、「エスメラルダ」など、約50品種のバラ約320株が植えられています。見ごろは5月中旬です。
 その後、旭通商店街を散策しました。コロナの影響でしまっているお店も多々あり、あまり賑やかとは言えませんでした。しかし、普段から商店街に行くことがない私でも、また行きたいと思えるような飲食店がありました。また、普段スーパーで野菜や肉を買っている私からすると、八百屋や精肉店は珍しいと感じました。そして、商店街があるのとないのとでは、ただ夕飯の買い物のためだけにスーパーだけに行って帰る生活スタイルから、夕飯の買い物ついでに商店街の他の店をみて、コミュニケーションをとったり、さらに商店街でゆっくりコーヒーも飲める生活スタイルに変わるような気がしました。
 二回目の旧吹田村のまち歩きを通じて、吹田という町全体で見た時の、旭通商店街のシンボル的役割や若い世代が遊べる場所のような、一回目では知ることができなかった旧吹田村の魅力を、より一層深く知ることができました。吹田のことを知れば知るほど、吹田という地域が好きになり、住んでみたくなりました。