2021.9.16

国際観光学部 塩路研究室3年生が吹田まち歩き3

塩路ゼミ3年生が旧吹田村をフットパス

2021年6月26日に、国際観光学部 塩路研究室3年生が吹田市JR吹田駅と阪急吹田駅に囲まれた旧吹田村エリアでまち歩きを実施し、同地域の地質学的背景から現代に至るまでの街並みの変遷などを学びました。今年も塩路研究室がキャリアゼミで連携している「吹田歴史文化まちづくり協会」の「吹田まち案内人」の方々に、学生たち2チーム(旧吹田村と千里ニュータウン)を案内していただきました。同協会のご協力で、新型コロナウィルス感染予防を徹底しながら無事に6月と7月に実施することができました。2チームは、それぞれ2回ずつ、同じエリアを歩きました。1度目は吹田まち案内人の方に説明をしていただきながら一緒に歩き、2度目はそれを踏まえて、さらに学びを深めるために重点的にあるいは別のルートで自分たちで歩きました。今回は、旧吹田村を初めて歩いたチームが報告します。

歴史ある旧吹田村

3年生 荒川 和音

 6月26日と7月4日に旧吹田村へまち歩きに行きました。朝9時半に集合し、吹田まち案内人の丹羽さんに様々な歴史がわかるコースを案内してもらいました。阪急吹田駅から泉殿宮、アサヒビール吹田工場、JR吹田駅前、旭通商店街、阪急旧東吹田駅跡地、旧西尾家住宅、亘家住宅、大の木神社、吹田の渡し跡、南町道標、浜屋敷の順で訪れました。この中で今回私が最も印象に残った内容や場所を紹介します。
 はじめに、約5000年前~4000年前には、河内湾と大阪湾を隔てる上町台地の北側に天満砂堆、千里丘陵の南端に吹田砂堆がありました。そして、千里丘陵から南東方向に延びた吹田砂推は、周囲より土地の標高が高く、旧吹田村として発展し、千里丘陵の南側には吹田砂堆が形成されました。その後、大阪湾の海岸線はどんどん南下し、そこへ縄文時代から人が住み始めたと言われているそうです。
 また、吹田は現在、大阪府の北摂三島地域に位置する市で中核市に指定されています。人口37万人であり、吹田市にある大学は、大和大学、大阪大学、関西大学、大阪学院大学、千里金蘭大学の5つがあります。
 まず案内して頂いた阪急吹田駅は、天神橋筋六丁目駅から大阪府吹田市の北千里までを結ぶ阪急電車の鉄道路線です。阪急千里線の開通は1921年で、開通当初は東吹田駅と西吹田駅がありました。現在の吹田駅は当時、西吹田駅と言われていました。国鉄は当時、8銭、中等では15銭、上等では25銭もの料金がかかり庶民には手の届かない乗り物だったそうです。
 次に案内して頂いた泉殿宮・泉宮霊泉では、創建は古く、弥生時代の5世紀頃とされていますが、詳細は不明だそうです。神社のマークである水巴は火事除けを意味し、木工は子孫繫栄を意味しています。平安時代ごろに日照に苦しむ住民が神に祈願すると泉が湧きだしたことから神社名が泉殿宮に改称され、湧きだした泉を泉殿霊泉と呼ぶようになったと伝えられています。昔話のワンシーンのような出来事でこの水巴と木工の印によって織田信長が行おうとしていた焼き畑を中止にしたそうです。また、現アサヒビール株式会社吹田工場発祥の泉殿霊泉でもあります。
 そして、アサヒビール吹田工場は、1889年に「大阪麦酒株式会社」として設立され、1892年には麦酒が発売され、当初、年間大瓶換算で200万本、現在この吹田工場での出荷量は5億5000万本にも及ぶそうです。また130年以上の歴史を持つこのアサヒビールを作っているのはこの吹田の工場しかありません。工場の入り口近くには、赤い煉瓦が特徴的な建物が大正時代からそのまま残されており、工場見学をすることが出来るそうです。私もお酒が大好きなのでとても興味深く、一度訪れてみたいと思いました。
 最後に、吹田歴史文化まちづくり協会の拠点である、浜屋敷について紹介します。同屋敷は、江戸時代後期に旗本の筆頭庄屋を務めた屋敷でしたが、2000年に庄屋の子孫の方から吹田市への寄附の申し出があり、これを受けて3年間かけて改修したものです。この浜屋敷は、静かな住宅街にある古民家で入り口には展示品が並び吹田の古代からの歴史を短時間で知ることが出来ました。また月に1,2回イベントも行っており、私が訪れた際は、七夕の笹飾りが飾られていて子供連れの方などが来ていたことから、地元の人々に愛されている場所だなと感じました。
 今回、旧吹田村エリアを訪れるまで、私は吹田について高級住宅街で富裕層が住む地域という印象をもっていたので、実は訪れるのに少し抵抗がありました。しかし、案内をしてくださった丹羽さんをはじめ、飲食店を訪れた際とても親切な方が多く、フレンドリーでとても住みやすい地域であり、かつ歴史ある町だということが分かりました。
 また1970年に吹田市で開催された大阪万国博覧会は当時史上最大の規模を誇り、未来の科学技術が、約6500万人もの来訪者の目に焼き付けられた場所です。そして、2025年には大阪市の夢洲で開催が予定されています。「いのち輝く未来社会のデザイン」をテーマにした大阪博は、持続可能な開発目標の達成とその先の未来を描き出すことが狙いということなので、想像のつかない未来をどのように表現するのかとても興味深いです。同博覧会は、歴史ある町である吹田を外から来た人々に知ってもらう良い機会でもあるので、大阪博をきっかけとして今後、吹田を含めたがどのように発展していくのか注目していきたいです。

何気ない場所に深い歴史

3年生 横井 香穂

 私たちは6月26日に吹田歴史文化まちづくり協会の吹田まち案内人である丹羽さんのお話を聞きながら旧吹田村を散策しました。阪急吹田駅をスタートし、アサヒビール工場の外を一周し、JR吹田駅、旧阪急東吹田駅のホーム跡、神崎川の手前から浜屋敷、吹田街道を通り、阪急吹田駅に戻ってきました。今回は特に印象に残ったところについて報告します。
 まず、初めに訪れた泉殿宮です。ここは、一見普通の神社に見えます。泉殿宮は、詳細は未詳ですが、弥生時代に創建され「吹田の宮」と称され地域住民たちの氏神として祀られていました。平安中期ごろ、牛頭のお神輿が当地を通りかかった際、水がなく日照りに苦しむ住人が神に祈願すると、泉が湧き出たと伝えらえています。湧き出た泉は泉殿霊泉とされ、吹田の三名水と言われています。この泉をおいしいビールにできないかとドイツに送り、審査してもらったところ、おいしいビールになると返事をもらったそうです。この泉殿霊泉を使って作られたビールが「アサヒビール吹田工場」のビールです。今は高速道路やニュータウンの開発により、湧水が湧き出なくなり、ビールには異なる水を使っているそうです。泉殿宮は住宅地を抜けたところにあり、私の家の近くにあるような神社だと思っていましたが、中に入り、お話を聞くと、その水がアサヒビールに関係していることに驚きました。泉殿宮には、昭和45年に開催された「日本万国博覧会」の会場建築に先立ち、昭和42年に大地鎮めの神事による起工式が行われ、その時の立柱祭の元柱がおかれています。このような点から泉殿宮は今の吹田にゆかりがあり、つながりがある神社だと感じました。
 次に、泪の池公園と呼ばれている小さな公園についてです。ほかの名で「血の池公園」とも呼ばれています。そこの公園はかつて小さな池で、誤って叔父の大日坊能忍を切ってしまった平景清が夜な夜なこの池で泪を流し、血の付いた刃物を洗い流したという説がある公園です。さすがに「血の池公園」は名前が衝撃的すぎるため、「泪の池公園」とされているそうです。
 私は、今回のまち歩きを通し、一見普通の住宅地、古い家、公園と思っていたところに、深い歴史や昔の吹田の人の生活が見えました。そして住民の方もこの歴史について知らない人が多くいるのではないかと考えました。街には場所についての説明の看板が設置されていましたが、まち案内人の方がしてくださった詳しいお話も、地域の方に知ってもらいたいと思いました。私自身も自分の家の周りの何気ない場所に旧吹田村のような歴史があるのかも知れないと思うと、改めて地元にも興味がわきました。

アサヒビール吹田工場の歴史と今

3年生 平山 聖翔

 7月4日に塩路ゼミの活動で旧吹田村のまち歩きを行いました。そのコースの中のアサヒビール吹田工場に焦点をあてて述べたいと思います。
 アサヒビール吹田工場は、明治22年JR吹田駅に隣接する敷地に「大阪麦酒会社」として創設されました。その後操業を開始した明治24年に吹田村醸造所が竣工されました。その当時のままであるレンガ造りの建物をみることができるのも吹田ビール工場の特徴のひとつだと思います。吹田の国指定重要文化財でもある旧西尾家住宅には一部床がレンガで作られている部屋があります。これは当時のアサヒビール吹田工場のデザインに影響されて作られたと言われています。それほどアサヒビール吹田工場のレンガの建物は当時としては珍しく、影響力があったことを理解することができました。
 アサヒビール吹田工場の隣接地にある泉殿宮には日照りに苦しむ里人が神に祈願すると、泉が湧き出したという伝説がある泉宮霊泉があります。明治22年にその湧き水をビールの本場であるドイツのミュンヘンに送った結果、ビールの醸造に適水だと保証を得ることができました。その同水系の湧き水を使ってビール工場が吹田に建設されました。そんな歴史のあるアサヒビール吹田工場ですが、麦酒の販売を開始した当時は年間大ビン換算で約200万本でしたが、現在この吹田工場での出荷数は5億5000万本まで増えています。
 実際に周囲を歩いてみると工場の道路側の部分には広く緑地帯が施されていることがわかります。2000年には吹田ビール工場が「都市景観賞」も受賞しており、外観を楽しむこともできました。
 しかし、残念なことにコロナウイルス感染症拡大の影響もあり、今回は工場内を見学・体験することができませんでした。普段、この吹田工場では、スーパードライの製造工程を学ぶことができる工場見学が人気です。実際にビールの製造工程を見て学び試飲することもできます。その他にもスタートホールと呼ばれる工場の創業当時の写真が展示してあるスペースやビールの原料である麦芽やホップを手に取ることができるスペースなど様々なサービスがあります。今回のまち歩きでは、これらを見ることはできず、吹田まち案内人の丹羽さんのお話でアサヒビール吹田工場の歴史を学ぶという形でした。しかし、お話から外観やその歴史を知ることができ、吹田ビール工場に魅力を感じました。次に訪れる機会があれば、是非実際に見学・体験をして吹田の魅力に関する学びを深めたいと思います。

旧吹田村を次の世代へ

3年生 國方 勇成

 6月26日に旧吹田村チームで阪急吹田駅西出口を出発して様々なスポットを巡り、阪急吹田駅南出口へと帰ってくる約4.6㎞のコースを吹田まち案内人の丹羽さんに案内してもらいながら歩きました。旧吹田村が周囲より土地の標高が高いことや天満砂堆と吹田砂堆がくっついた砂堆の上に旧吹田の神社、寺院が立てられていることを初めて知りました。最初に訪れた泉殿宮では、泉が湧き出した話を聞きました。日照りに苦しむ住民が神に祈願すると、泉が湧き出したと伝えられていることに、私が当時の住民であったなら神の存在を実感することができただろうなと感じました。しかし、湧き出した泉(泉殿霊泉)は現在湧き出しておらず水道の水しか流れなくなっていること聞いて、湧き出していた光景を自分の目で見たかったと思いました。
 アサヒビール吹田工場の近くを通った時には、タンクが無数に立っていました。丹羽さんによると、それはビールが入っているタンクであり、1タンクを一人で飲む場合は千年もかかると教えてくれたときは驚きました。吹田工場では、麦酒発売開始当初、年間大ビン200万本だったのが、今では5億5000万本出荷されています。アサヒビールを普段からたくさん飲む人からしたら夢のような光景だろうと思います。
阪急旧東吹田村駅跡地では、廃止される前の駅のロータリーの雰囲気が感じ取れました。現在の阪急吹田駅に着いた時の駅名のところに吹田駅(市役所駅前駅)と書かれている時に感じた疑問が、市役所前駅を吹田駅と改称した理由を知ることで解消されました。コロナ禍のため国指定の重要文化財である旧西尾家住宅は中にこそ入れなかったものの、外から見た大規模な塀を見て立派な建物だと感じ、焼失などせずに現在まで残ったことに感動しました。
 今回のまち歩きで最も印象に残った場所は、大の木神社にある樹齢700余年とされる枯れた椋の木の老木です。成長はしないものの、屋根をかぶせたり倒れないように棒で支えたりと、とても大きくて存在感がありました。御神体になる前は神崎川を往来する船にとって大きな目印とされていて、御神体を見る限りでもとても大きかっただろうなと思いました。その御神体の近くを流れていた神崎川は、当時は約400mも横幅があったそうで、船着き場の跡地が現在も残っていました。今では神崎川は災害に備えて川から物資を供給できるように船着き場を作っていると聞いて、そうした備えは大切なことであり、もしものために何か作っておくことは今後も続けていくべきことだと感じました。
 今回のまち歩きを通じて、今まで関わってこなかった吹田の町がどのように出来上がり、現在まで残る数々の建物やものを残してきたのかを知ることができました。その意味で、とても充実した時間でした。今回歩いたコースでは、吹田の多様な歴史を学び、古い建物だけでなく、古木のような残されたものや跡地も含めて、次の世代に語り継いでいかなければいけないと感じました。