塩路ゼミ3年生が台湾と日本で調査旅行

国際観光学部 塩路研究室3年生3人が2019年9月初旬に台湾と日本で調査旅行を実施しました。今回は、彼らが調査した内容とわかったこと、現地で感じ、考えたことを報告します。

台湾でフットパスをして
3年生 中島 和香

 私は、台湾の台中と台北でフットパスをしました。台中は、台北と比べると田舎ですが、市場やカフェなど入って休憩できるようなところもたくさんあります。台北は観光客も多く高層の建物も多くみられました。
 まず始めに、台中についてです。台中は、台湾の中西部にある都市のことで、都会でありながらもまだローカルな雰囲気が残っている素敵なところです。台中は人口約300万人で、9月の最高気温が39度に上るほどとても暑い場所です。私が訪れたときもとても暑く歩いている人は少ない印象でした。特に、私が歩いたところは住宅と店が並んでおり、歩いている人や自転車よりも車とバイクがとても多かったです。大通りや交差点は、車とバイクばかりで、日本とは比べられないほどの量だと感じました。
 台中の民家は、マンションや大きな一軒家よりもシェアハウスのような家やアパートが多く,高層マンションはほとんど見かけませんでした。日本と比べて一軒一軒の距離が近いと感じました。通り沿いに植物を育てている家が多く、車やバイクによる排気ガスでよどんだ空気が一掃されていていいなと思いました。道自体はコンクリートで歩くことに不便はありませんでしたが、道の両サイドがすぐ住宅になっているため、バイクや車の通りとの距離が少なく通りにくいと感じるところも多々見られました。車とバイク利用者が多い分、一般の道を阻む感じになっているところがあったので、もっとパーキングエリアがあればいいと思いました。
 市場では、主に海鮮や肉類、有名中華料理のほか果物が売られていました。フルーツは、とても暑い季節には最適で小さい子供も食べることが出来るのがいいと思いました。肉の中でも鳥は形がわかるまま売られていたりして少し驚きましたが、量があり、店の人や家族で買いに来ている人が多い印象でした。
 次に台北についてです。台北は観光客も多く、デパートや高層ビルもたくさんありました。台中と同じように車とバイクの量は多かったですが、地下鉄などの公共交通機関があります。電車内は、時間帯の問題もありますが、私が乗った時はほとんどが満員で、日本と同様に利用者の年齢層は様々でした。十分は、京都の嵐山に似ていると思いました。道は細いところばかりで、道に対しての人の数が多すぎて近くの店で何かを買うのも大変なほどでした。十分にある、踏切内に入ってランタンを空に飛ばす体験がとても人気でした。願い事を託した天灯と呼ばれる大型ランタンを飛ばします。ランタンの周りの和紙の色ごとに意味が違います。そのため叶えたい願い事に合わせて色を選んで言葉を書いて飛ばします。いろいろな言語で書かれており、様々な国の方が来られていると感じました。
 十分や九分は、有名な観光地なので案内板が多く、道も整備されており、分かりやすいところが多かったです。道の歩きやすさや案内板の有無は、観光客の量や住んでいる人口に比例しているということが分かりました。
 実際に台湾を歩いてみて、まず気温や湿度の高い夏に行くのはあまりおすすめできないと感じました。日本の夏よりもじめじめと暑いため、夏の台湾でフットパスをするときは適度な休憩と水分を持ち歩くことが大切だと思います。台湾の人は、とても親切で日本語が通じることもありました。道は、日本に比べて整備があまりされていないため、車道と歩道の距離が近く、バイクの台数がとても多く歩行の邪魔になるくらいでした。日本との違いは、交通量と道の整備面で多く感じました。特に台中では、人と車やバイクがとても近くなってしまう道路がいくつかあったのでフットパスだけでなく生活の面でも整備したほうが安全だと思いました。

台湾調査報告
3年生 堀内 和真

 2019年9月12日から3日間、台湾に行きました。東アジアに位置する台湾は、夏場は湿度と気温が高くて心地よい気候とは言えませんでした。1895年から1945年まで日本が台湾を統治していた過去がありました。しかし、日本は第二次世界大戦に負け、これを受けて台湾は中国の統治下に編入されることになりました。今回台湾へ行き、たびたび感じたことは日本語を話すことができる店員や一般人が多くいたことでした。過去に日本が統治していたことが影響しているのかもしれないと思いました。
 日本は台湾に植民地統治を開始すると、アヘン中毒者の撲滅、学校教育の普及、製糖業などの産業の育成を行うことにより台湾の近代化をはかりました。しかし、植民地統治に反対する人も多く、飴と鞭として制圧を成功させました。日本は第二次世界大戦後、台湾の領土権を放棄し、その主権は中国へと移りました。中華人民共和国が成立し中華民国が台湾の台北市に移転しました。そのため中国と中華民国の政治体制に様々な改良が試みられています。私が台湾で話をした50代くらいの男性は「中国人は嫌いだ。出ていけばいい。日本人はウェルカム。昔日本の石原が台湾を守ってくれた。私はスコットランドなど世界で仕事した。そこにはホンダ、三菱、トヨタたくさんの日本の自動車、バイクがあった。日本は世界の経済を回している」と語っていました。この日本の石原というのは前東京都知事の石原慎太郎氏のことです。石原氏は台湾をアジア大都市ネットワーク21に参加するように迎えました。これは合同事業として産業では中小型ジェット機の開発促進などがあります。衛生面では感染症対策プロジェクトなどたくさんの事業が織り込まれ、日本だけではなく台湾の経済発展に貢献しました。しかし、このプロジェクトは現在休止しています。
 1999年に起こった台湾震災に日本はいち早く緊急救助隊の支援を送りました。また日本で2011年に東日本大震災が起こると、台湾も200億円を超える支援を送りました。日本と台湾の両国の関係は、これまでの歴史や震災を通してより深くなっていると思います。
 今回、日本を出て自分自身が外国人観光客になってみて、台湾では多くの親日家と出会い心地よく旅をすることができました。これは偶然ではなく、台湾に親日家が多いことが理由になっていると考えました。しかし、電車を利用した際に同じ駅名でも地下鉄、高速電車、電車の駅があり場所が異なっており、目的地から離れた駅に着くこともありました。気温が高く団扇や手持ちの扇風機が必要と感じました。また、大気汚染がひどくマスクなどの対策が必要です。台湾では多くの観光地がありますが、少しはずれた路地に入ると生活感があふれた道があり趣を感じることができます。台湾は、親日家が多く心地よい反面、日本と違った音や匂い、人波や文化などたくさんの新しい要素に触れることができる国でした。

志賀島の自然と歴史に触れて
3年生 長峯 由季

 私は福岡県の北部に浮かぶ志賀島にてフットパスを行いました。博多駅からフェリー・車ともに約30分と市街地に近い場所ですが、自然が豊かで潮の匂いが漂う漁師町でした。
 まず、志賀島港の待合室を出て左へ海沿いを真っ直ぐ行きます。初めは民家が立ち並んでいて小学校や保育園があります。ある民家の前にはパラソルが立てられ、その下に花と代金箱が設置されています。無人販売されているのは、人と人が信頼し合っている証拠だと感じました。その奥へ進むと坂道になります。海沿いは歩道がないのですが、自転車の通る幅は整備されています。加えてガードレールが低く、高さがあるので少し怖いですが波の音をダイレクトに感じることができます。ひたすら真っ直ぐ進むと右手に金印公園が出てきます。金印とはあの「漢委奴国王と記された金印」であり、
その公園付近で発見されたことを記念して作られたそうです。公園と言っても一般的な遊具がある公園ではなく記念として作られた公園なので、坂道を登った頂上に金印のレプリカとモニュメントが展示されています。金印のレプリカと海を眺めることができる公園では、昔の日本に想いを馳せることができます。見晴らしが良いので、左にヤフオクドームのある博多市内、真ん中には能古島が見え、絶景です。 
 港から来た道を戻り、民家のある小道に入りました。住民の方が表におり、そこに住んでいない私に親切にも挨拶を交わしてくださいました。奥へ進むと活魚屋さんがあり、地元の方が集って仲睦まじく話しをされていて、島の情緒が感じられました。今度は金印公園とは逆の方へ進み、志賀島大橋へと向かいました。この橋は福岡市本土と志賀島を繋ぐ橋で、全長97mあります。両サイドが海でとても心地よい風が吹きます。左側は海水浴場になっているため、海を思う存分満喫することができます。
 再び港の方へと戻り次は右に曲がり真っ直ぐ進みます。左手に小山があり鳥居が建っています。鳥居をくぐり、石畳の階段を登ると志賀海(しかうみ)神社があります。志賀海神社にお祀りしている綿津見三神は伊邪那岐命の禊祓の際にご出現された禊祓(みそぎはらい)の神様です。(志賀海神社HPより)。清め砂でお清めし、それから参拝します。境内はとても静かで厳かな場所でした。
 今回の調査では、志賀島の自然の豊かさと人の優しさに触れました。志賀島についてほとんど無知な私にオススメの場所を教えていただいたり、すれ違う際に挨拶を交わしていただけたり人の温もりが身に沁みました。また玄界灘と博多湾に面した志賀島の海の幸はとてもおいしかったです。中西食堂さんでいただいたサザエ丼が絶品でした。海沿いには潮の香りが漂い、そのすぐ近くには緑があり自然豊かな歴史の深い島でした。