淀屋橋、心斎橋、道頓堀のゆかりの地を探しました

 2021年7月に森重ゼミ11期生となる2年生14名が決まりました。ゼミでは新たな資源の発掘を通して、地域の新たな魅力づくりや問題解決をめざす活動を行っています。そこで本格的なフィールドワークを進めるにあたり、その練習としてゼミ生が3つのグループに分かれ、11月6日に現地調査を実施しました。
 今回の現地調査では、淀屋橋、心斎橋、道頓堀をテーマにしました。この3つは、いずれも人物が名称の由来になっています。そこで、それぞれの由来となった人物について事前に調べた上で、そのゆかりの地を巡りながら新たな資源を発掘することが、今回のフィールドワークの目的でした。
 当日はまず、フィールドワークの写真撮影の方法を実践した後、それぞれのグループごとに事前に調べた場所を周っていきました。中には地域の方々に聞き取り調査を行い、新たな情報を集めているグループも見られました。普段名前を聞いたり、訪れたりしたことのある場所であっても、視点を変えたり、その背景にある歴史などに焦点を当てることで新たな発見があります。今回の現地調査で得た視点や成果をもとに、今後本格的なフィールドワークの準備を進めていく予定です。(森重昌之)

当日の現地調査の様子

  • 淀屋橋での調査の様子

  • 淀屋の碑での調査の様子

  • 心斎橋での調査の様子

  • 心斎橋商店街での聞き取り調査の様子

  • 安井道頓・道トの墓での調査の様子

  • 安井道頓・道ト紀功碑での調査の様子

参加した学生の報告

何気ない橋や建物の背景
 国際観光学部2年 藤井前

 11月6日、淀屋橋の歴史について学びに行きました。このフィールドワークで淀屋橋が架けられた歴史や経緯を知り、架けられたことによって街がどのように発展し、いかに観光につなげられたかを知るために調査しました。
 まず、江戸前期の大坂の豪商である淀屋の歴史について調べました。京橋一丁目にあった淀屋屋敷付近では、元和2(1616)年に青物市場が再興し、後の天満青物市場へと発展しました。そして、淀屋常安は元和5(1619)年、中之島の「常安静地」開拓し、ここに移住して常安民家を開いたことにより、淀屋の初代当主となりました。しかし、豪商となった淀屋は宝永2(1705)年に突如として闕所処分とされ、断絶しました。その理由は、さまざま取り沙汰されていますが判然とせず、橋名にその名だけが残ったとされています。その後、淀屋重當の下で番頭をしていた牧田仁右衛門は暖簾分けされ、出身地の伯耆国久米郡倉吉に店を開き、淀屋清兵衛を名乗りました。以後、牧田家は8代目の孫三郎の没する1895(明治28)年まで続きました。牧田家の商業活動や各当主の詳細に関しては、資料がほとんど残っていないため明らかではありませんが、鳥取藩や荒尾氏から献金を求められるなど、明治時代まで多額の資産を有していたことがわかっています。
 今回調べた歴史から、淀屋は250年以上力を有しており、海鮮や米などのさまざまな事業を展開していました。今でも淀屋の名を持つ建造物が残っていますが、なぜ淀屋が闕所処分されたのかはやはり不明でした。そして、明治期に入って洪水の影響から架け直されたものが、今の淀屋橋であることを知りました。
 そして、今回のフィールドワークではまず淀屋橋に訪れました。そこでは橋の近くや少し離れた場所から写真をとり、実際に橋を渡って橋の周りの町が発展していることを改めて感じました。次に淀屋の墓がある谷町に行き、淀屋の墓を見学しました。そこでは墓地の管理者である住職の方にお話をうかがい、淀屋が持っていた当時の権力の大きさや、京都の八幡にも墓があることを知り、京都にも関係していることを学びました。
 今回のフィールドワークから、地元大阪にある淀屋橋の歴史を詳しく知ることによって、すべての橋が税金で架けられたわけではないこと、かなり以前から架けられていたことを知りました。普段自分が利用しているものが深い歴史を持ち、物事のきっかけをつくっている存在と感じました。自分の身の回りにも意識を向けることで理解を深め、街の発展やつくりを知ることにつながることを学びました。

心斎橋の経済発展の歴史を学んだ
 国際観光学部2年 森直輝

 11月6日、森重ゼミ2年生で大阪の心斎橋を訪れました。今回、私たちは「歴史から心斎橋の観光資源を探す」をテーマに活動しました。この日のために、私たちは事前にインターネットを使って、心斎橋の架橋からその変化、撤去までの歴史を調べ、今も鶴見緑地公園に当時のままの欄干が保存されていることなどを調べました。
 私たちのグループは、心斎橋商店街と鶴見緑地公園の緑地西橋を調査しました。移動手段として、大阪市内のさまざまな場所で借りることができるレンタサイクルと電車を利用しました。レンタサイクルは1時間300円と比較的安く、心斎橋と鶴見緑地間を往復するのにはちょうど良くお勧めです。
 初めに訪れた心斎橋商店街の「心斎橋画材」という店で、私たちは戦後焼け野原となったこの地を復興させるため、洋服やアクセサリー店が多く出店したことをうかがいました。心斎橋は江戸時代から遊郭への土産物を買う場所として利用されており、そのため洋服やアクセサリーの店が多いということを教えていただきました。現在の心斎橋にも多くのファッション店がありますが、戦後から残っている店は10軒ほどとなってしまっているようです。
 次に訪れた心斎橋顕彰碑には、昔心斎橋が実際にあった場所として顕彰碑と当時のままのガス灯が残されていました。顕彰碑には、心斎橋の造りの変化とガス灯を含めた歴史が書かれており、また横断歩道部分には石造りの時代(1909年)の欄干を見ることができました。
 次に、私たちは電車で鶴見緑地公園に向かいました。事前にインターネットで調べたところ、公園内の緑地西橋に鉄橋の時代(1873年)の弓形の欄干が残されていることがわかりました。さらに、現地で調査すると、欄干が撤去されてから今まで境川橋、新千舟橋、すずかけ橋と置きどころを変えていったことと、心斎橋の鉄橋はドイツから輸入された当時の日本では規模の大きなものだったということを知ることができました。およそ80年前の技術のものですが、がっしりとしていて文明開化の様子を感じました。
 今回心斎橋の関連物を巡って、江戸時代から現在までの大阪の経済発展の形を見ることができました。そして、江戸時代から続く心斎橋のファッション文化は立派な観光資源であると思いました。また、インターネットで調べるだけではわからないことが多く、実際に現地に赴いて調査することが重要なのだと実感しました。今回の学びを活かし、3年次の調査対象地域でのフィールドワークに尽力していきたいと思います。

道頓堀と安井道頓の歴史を辿る
 国際観光学部2年 尾崎昴史

 私は、基礎演習の授業で道頓堀の成り立ちと歴史について調べました。フィールドワークに行く前に事前調査として道頓堀について調べました。また、道頓堀に関係している場所に実際に訪れました。このレポートでは、上記のことについて書いていきます。
 まず、事前調査として道頓堀の成り立ちについて調べました。すると、安井道頓という人物に辿り着きました。この人物こそ、道頓堀を語る上で外せない人物です。事前調査では、この安井道頓を中心に調べていきました。
 安井道頓は現在の大阪市平野区出身で、戦国時代から江戸時代初期にかけての商人であり、道頓堀を開堀した人物です。道頓堀は、1612年に安井道頓が私財を投げうち、南堀河の開削に着手しました。しかし、安井道頓は大坂夏の陣で戦死してしまったため、大坂城主松平忠明の命で従弟の安井道ト(どうぼく)が工事を引き継ぎ、1615年に道頓堀が完成しました。そして、開削者である安井道頓の功績を後世に伝えるため、「道頓堀」と名付けられました。そもそも、なぜ道頓堀がつくられたかというと、舟運の便を開くこと、また田畑への用水や飲料水の確保、開削土を利用して周辺の湿地帯を造成し、新たな町を開発することなどでした。さらに、安井道頓のゆかりの地についても調べました。その結果、平野区の杭全神社、中央区の大阪城・道頓の墓(記念碑)、道頓・道ト出生地碑に行くことにしました。
 まず、八尾市久宝寺の寺内町ふれあい館(八尾市まちなみセンター)にある道頓・道トの出生地碑を訪れました。寺内町ふれあい館に道頓・道トの出生地碑が建てられていました。次に、平野区の杭全神社に訪れました。道頓の親戚にあたる成安栄信を追善供養する連歌が天正13年にうたわれていました。杭全神社には歌所の石柱も残っており、花台も現存していました。次に、大阪城に訪れました。道頓は大坂城築城工事にも従事したといわれています。その後、道頓・道ト紀功碑に訪れました。この道頓・道ト紀功碑は道頓堀の近くの日本橋北口にありますが、その石碑の石は大阪城の石垣に使われる予定であったそうです。その近くには、道頓・道トの墓もありました。
 今回のフィールドワークを通じて、各地にまだ安井道頓の面影が残っていることがわかりました。また、普段訪れているところや目にしているものでも、注意深く見てみると新しい発見ができると思いました。今後、歴史を知ることでその場所についてさらに深く興味を持ち、違う視点から楽しめると思いました。

安井(成安)道頓の遺構巡り
 国際観光学部2年 向井友紀

 私は11月6日に基礎演習のフィールドワークの練習として、道頓堀を開削した安井(成安)道頓のゆかりの地をめぐる現地実習に参加しました。道頓は現在の八尾市久宝寺出身で、戦国時代から江戸時代初期にかけての商人です。
 最初に向かったのは、八尾市久宝寺にある寺内町ふれあい館(八尾市まちなみセンター)です。その敷地内の中庭に安井道頓・道ト出生地碑があります。この碑は、道頓の贈位を記念して建立され、安井家の庭にあったものを移設したものだそうです。
 ところで、安井道頓は成安道頓であったとする見解もあります。成安道頓は現在の平野区出身であったとされています。成安道頓の遺構も巡るべく、次に向かったのは、平野区にある杭全神社です。この杭全神社には、全国で唯一現存する連歌のための建物といわれる連歌所があります。そこに道頓の親戚に当たる成安清頓を追善する連歌が催されました。また、連歌所の中にある花台も、親戚の成安栄信に寄進されたものだそうです。鳥居をくぐってすぐ左に取水場がありますが、それも道頓の親戚に当たる成安善兵衛が寄付したものとされています。実際、その正面に「寄進 成安善兵衛」と刻まれていました。連歌所やその中にある花台、取水場は成安道頓と直接的な関係はありませんが、間接的なかかわりがあるといえます。杭全神社の近くにある光源寺には、成安姓の墓があるそうですが、連歌所の中にある花台とともに非公開であるため、確認できませんでした。
 その後、大阪城に移動しました。道頓は豊臣秀吉の直属の部下であり、大阪城築城工事に従事したといわれています。現在の大阪城は徳川大阪城を復元したものですが、実はその地下に豊臣大阪城の石垣が残っています。私たちが行った時は偶然、「大阪城天守閣復興90周年記念 大阪城の秋まつり2021」が開催されていて、そのイベントの1つとして豊臣石垣が特別に公開されていました。そのため、普段は非公開の石垣を地上からのぞき込んで見ることができました。この石垣はめったにお目にかかれないので、とても貴重な経験になりました。
 最後に道頓堀の近くにある、安井道頓・道ト紀功碑と安井道頓・道トの墓を見に行きました。日本橋北口に道頓堀開削の功労者を讃える道頓・道ト紀功碑があるのですが、その石碑の石は大阪城の石垣に使われる予定でした。しかし、実際は大阪城の石垣に用いられなかったため、「残念石」と呼ばれています。道頓・道トの墓は三津寺墓地墓の一番奥まったところにあります。2022年1月から改葬手続きに入ると書かれていました。
 今回のフィールドワークを通じて、たとえ大阪市内の身近な場所であっても、経歴やゆかりといった歴史的な経緯などを調べることによって、その場所についてさらに深く見聞を広めることができるということがわかりました。