塩路ゼミ3年生が吹田市佐井寺でまち歩き

 国際観光学部 塩路研究室3年生が、5月11日に吹田市佐井寺エリアを初めてまち歩きしました。今年度も、本学キャリアゼミ活動として、吹田歴史文化まちづくり協会と連携し、吹田まち案内人の方々にまち歩きガイドのご協力をいただきました。今回は3年生が佐井寺エリアを歩いて感じたことや考えたことについて報告をします。

歩いて、見て、知る、佐井寺
3年生 猪口 大我

 私たち塩路ゼミは5月11日に吹田市佐井寺にてまち歩きをしました。私たちは阪急千里山駅から合計14個の地点を吹田まち案内人のガイドの方たちと共に巡っていきました。最初に私たちがこの地に来るために使った阪急千里山駅は、大正10年、北大阪電鐵の十三~淡路~豊津間が開通した同年10月に豊津~千里山駅が開通したもので、現在私たちが見ている駅舎は昭和63年に建築されたものです。
 次に、駅のすぐ近くにあった千里山団地はとても綺麗で、それは建て替えられた二代目のものでした。千里山団地は昭和32年に建てられたもので、関西で最も歴史のある団地の一つです。当時はダイニングキッチンや水洗トイレなどは憧れの住宅地だったそうです。当時の写真が団地の前の看板に張られており、団地の大きさや歴史を知ることができました。
 団地を横目に移動していくと、千里山・佐井寺図書館に着きました。ここは千里第二小学校の旧講堂と旧木造校舎を立て替えて図書館になりました。千里第二小の出身者にはノーベル賞を受賞した吉野彰やマクドナルドを日本で開店させた藤田田など有名な人がこの学び舎で過ごしたことを教えてもらいました。近くを通った際に独特の木の匂いがして歴史を感じる建造物でした。
 次の地点に向かう際に、尾根道という勾配が急な坂がありました。この日は五月でしたが、夏を感じさせるような気温で坂が大変でした。登り切った所は眺望がよく、あべのハルカスが見えました。そこから細道を歩いていくと次の目的地の茅葺の民家に行きました。茅葺の屋根はとてもざらざらした見た目であるにも関わらず、太陽に照らされて光っていました。写真ではわからないきめ細かさも、手入れの大変さも目で見て分かりました。
 次に訪れた愛宕神社は、標高74.4mに位置し、旧佐井寺村の中では一番高い所です。奈良時代、行基がこの山の端光を感得し、十一面観音菩薩像を掘り出して佐井寺の本尊としました。ここは風が気持ちよく通っていて、美しい景色を見ることができ、とても落ち着ける場所だと感じました。
 次の目的地に向かう際にも茅葺の民家がありました。佐井寺集落には合計三軒の茅葺屋根の家があります。茅葺屋根を過ぎて着いたのは佐井寺伊射奈岐神社です。ここはとても綺麗な神社で惹きつけられました。社殿の右側には須恵器窯跡があり、前には伊射奈岐一座と刻まれた社号があります。ガイドの方の話によると社号は文化遺産で、価値をつけるとするなら神社よりこの社号のほうが価値が高いそうです。目の前の大きな建物より横に小さく置かれた物の方が価値があることに興味を持ちました。
 次に訪れたのはお香水と読んで「おかうずゐ池」にいきました。佐井寺本堂の裏にあり、現在は開発によって水が枯れてしまいました。ここの池は徳川家康が治安を維持するために作った京都所司代の板倉重宗の母が目の病気を患った際に、ここの霊水で治ったことから佐井寺に釣鐘を寄贈されたと言われています。現在は枯れてしまい見られないのは残念でしたが、今もこうして語り継がれていること、そして目には見えない歴史を私たちが伝えることが大事だと感じました。
 そのまま佐井寺に入っていきました。創建時には山田寺と名乗り、境内は七堂伽藍と六坊がありましたが、伽藍・五坊が衰退したそうです。それでも佐井寺にはたくさんの建造物があり、当時の大きさが言葉だけでも理解できます。その中で目を惹かれたのは鐘楼で、現存する近世の鐘楼としては大阪府下で二番目の古さということで、年季の入った木の建材がとても印象深かったです。
 佐井寺の後、向かったのはくりぬき水路跡です。こちらも実物は見られなくて跡地の前に看板がありました。当時は水不足だった岸辺の人々が佐井寺で余った水を釈迦ヶ池に流し込んでためるためであったそうです。当時の水路の内部の写真が看板に張られており、この時代によく水路を作っていけたなと感じました。
 次に向かったのは西宝寺でした。中に入ることはできなかったため外から見ましたが、ここは惣道場として始まり、江戸時代初期の寛永6年に創建されました。坂をのぼった先にあったのは向かい坂と地蔵道標です。ここには向かい坂地蔵と呼ばれるものがあり、一列に13体の地蔵が並んでいました。地蔵は花などが供えてあって、地元の人が手入れしていることがわかりました。また「右吹田、左岸部」と書かれた道標がありましたが、ガイドの方の話によると、元あった場所からここに移され実際の向きとは異なっているそうです。道中に遠目ではありますが、三つ目の茅葺の民家が見られました。佐井寺にあるすべての茅葺の民家をみられたので良かったです。
 途中の管廣房の墓は、式内社の危機を菅氏が救い、伊佐具神社社号標石の建碑に尽力したことの感謝として刻まれたそうです。そして墓は伊射奈岐神社の方を見つめています。だれかに感謝され墓を建ててもらうのはとてもうれしいことだと思いました。
 ゴール近くに吹田市の真ん中に位置する「佐井寺南が丘公園」があります。ここには吹田のへそがあり大きな棒が飛び出していました。またここはそれぞれの方角に四神が作られています。しかし、それを知っていても難解なデザインで逆に気になりました。
 最後に向かったのは、土地区画整理事業で造成された「千里山東にちご公園」です。ここの横には貯水タンクが存在しますが、行基が地蔵の出現を掘り出したため地蔵塚と呼ばれていました。またこの公園は佐井寺南が丘公園の西に位置しており、公園が白虎の形をしているのですが、イメージするのは難しかったです。
 このまち歩きで、普段はただ素通りするかもしれない場所を、歴史を知ることで足を止め、その場所を深く理解することができてとても面白かったです。今は見えなくても建物や道が人々の歴史を語っているのだと感じました。 
 

 
 

昔のおもむきが残る佐井寺
3年生 佐古 奈月

 私たちは大阪府吹田市のほぼ中央に位置する佐井寺地域でフットパスを行いました。コースは、旧佐井寺村を中心とする場所で、吹田まち案内人の方3名に説明していただきながら、最寄り駅である阪急千里山駅をスタート地点とし、集落のある方に向かって14箇所の名所をピックアップしていただきながら佐井寺地域を散策しました。距離は約5kmで3時間ほどかけてゆっくりと歩きました。
 佐井寺地域の集落は標高が高い場所に位置しているため、道のりは坂道がとても多くて、この日は天気が良く気温が高かったこともあり、たくさん汗をかきました。坂道を登った先に、旧佐井寺村と呼ばれていた集落が広がっていました。この集落は昔栄えていた場所だったそうで、立派な木造建築が建ち並んでいて、茅葺き屋根の民家も見受けられました。
 佐井寺地域には神社や寺が多く創建されていて、今回歩いたルートでは全部で4カ所にお参りしました。最初に、愛宕神社に訪れました。この神社は旧佐井寺村の中では最も高い場所にあり、標高は74.4mに位置します。この神社は江戸時代に京都の愛宕大権現から勧請され、奈良時代に行基がこの山の瑞光を感得し、十一面観音菩薩像を掘り出し、佐井寺の本尊としたそうです。
 少し歩いた先に伊射奈岐神社がありました。この神社は式内社と呼ばれる格式の高い神社のひとつで、山田姫宮、佐井寺の奥宮と呼ばれていたそうです。社殿の右側には6世紀頃の須恵器窯跡が残されていました。この神社には、日本の総氏神様が祀られている伊勢神宮の方向に向いてお参りする「遥拝所」がありました。
 伊社奈岐神社を少し降りてすぐの場所に佐井寺本堂の裏側に着きました。そこには、「おかうずゐ」池と書かれた石碑がありました。当時この場所に池があり、池の水が病気回復、特に眼病に効き目がある霊水として信仰を集めたそうです。佐井寺は、高野山真言宗の寺で、創建時は山田寺と名乗られていました。釣鐘は、京都所司代板倉重宗の母の眼病がここの霊水により治ったことから、重宗が寄贈したとされています。その為、昔から佐井寺の本堂に目の悪い人がお参りにくることが多いそうです。古い昔に眼病に効くといわれていた霊水が現代まで言い伝えられ、それを目的に佐井寺お参りする人が今でもいると聞き、歴史の繋がりを感じました。たまたまお参りに来ていた地元の方が、住職に頼めば観音様を見せてもらえると教えて下さったので、二回目のまち歩きの際に拝見させてもらおうと思いました。
今回のフィールドワークで、吹田まち案内人の方々の説明を受けながら実際にフットパスを行い、佐井寺に住んでいた昔の人々がどのような場所で生活をし、現代の街になるまでにどう変化したかを知る機会になりました。神社や寺の歴史についても普通に訪れるだけでは分からないことまで詳しく話を聞くことが出来てとても勉強になりました。私は吹田市には初めて訪れたのですが、昔のおもむきが綺麗に残っていて、歴史が感じられる魅力的な街だなと思いました。
  

佐井寺伊射奈岐神社を知って
3年生 中村 初音

 私たち塩路ゼミは、令和6年5月11日に吹田市の佐井寺という地域に行きました。
その日の天気は、快晴で5月にしてはとても暑い日で、まち歩き日和でした。その中で印象に残っている場所は佐井寺伊射奈岐神社です。数十段の階段を登り、木々で出来たトンネルをくぐった先に、佐井寺伊射奈岐神社がありました。神社は掃除が行き届いており、清潔感がありました。
佐井寺伊射奈岐神社は山田の姫宮、佐井寺の奥宮と呼ばれているそうです。「山田寺境内絵図」によれば、丘の麓にあったらしく、社前に「伊射奈岐神社社一座」と刻む社号が建っています。社号標石は、江戸時代中期の儒学者並河誠所が、平安時代編纂の『延喜式神名帳』に掲載された「式内社」の所在地や名称が混乱しているのを正すために幕府へ標石建立を提言し、寺社奉行の大岡越前守忠相からの許可を得て元文元(1736)年から翌年にかけて建てられたものだそうです。その分布は旧摂津国に20基(大阪府11基、兵庫県9基)と限られ、吹田市では佐井寺伊射奈岐神社と山田伊射奈岐神社の2基が現存しているそうです。佐井寺伊射奈岐神社の標石は、上端を尖頭状に加工した細長い四角柱の正面と向かって右側面の下方に文字が彫られていました。台石は大きさの異なる2段の直方体で構成され、上段台石の左側面中央には、長方形(縦約24cm?横約9cm)に浅く彫り込まれた中に「菅廣房建」と刻まれていました。
 台石に刻まれた菅廣房は資金を提供した大坂の山口屋伊兵衛のことともいわれ、建碑に尽力したことへの感謝として名前が刻まれたといわれています。菅康房は元文元(1736)年に佐井寺村の庄屋宅で亡くなったといわれ、その墓と伝えられる「菅氏墓」と刻まれた墓石が佐井寺南が丘の墓地に現存していると、まち案内人の長岡さんが話してくださいました。

 さらに、佐井寺伊射奈岐神社には、遥拝所がありました。ここは伊勢の方向を向いてお参りする場所です。伊勢神宮は日本の総氏神です。地元の氏神にお参りして地域の発展や家庭の平穏無事を祈るのと同じように、伊勢神宮にお参りして日本の平和と皇室の弥栄を祈る気持ちを持つことが大切であると考えられたそうです。そのため、出向いて参拝出来ない時、その方向に向かい遥か遠くからお参りする場所を設けたとされています。この遥拝所の先に伊勢神宮があることを知り、遥拝所がこの場所にある意味を感じました。遥拝所というものを初めて知ったため、この知識を広めたいと思いました。

 今回は、私が最も印象に残った佐井寺伊射奈岐神社を中心に報告しましたが、他にもたくさんの所を歩いて、見て、佐井寺の歴史や人々の暮らし、風習について、知識を深めることが出来ました。2回目のまち歩きでは、今回と異なる新しい体験を得ることが出来るように努めたいです。
  

吹田の魅力を学ぶ
3年生 吉原 泰士

 私たちは、5月11日に大阪府吹田市内のまち歩きをしました。佐井寺コース5㎞の道を吹田まち案内人のガイドの皆さんと約3時間かけて歩きました。阪急千里山駅に集合し、そこからまち歩きを開始しました。私は吹田市の散策をして印象に残った場所が3つあります。
 まず1つ目は、千里山・佐井寺図書館です。遠くから見ると小学校に見えたものが近くに行くと図書館だと知り驚きました。千里山・佐井寺図書館は、千里第二小学校の旧講堂と旧木造校舎を立て替えて2004年に図書館に生まれ変わりました。ガイドの長岡さんの話によると千里山・佐井寺図書館は図書館利用に障がいのある方への支援拠点として、各種のサービスやボランティアの育成などにも力を入れているということを知りました。とても地域に優しい図書館だと思いました。
 2つ目は、伊射奈岐神社です。伊射奈岐神社の境内の入り口はとても狭く、丘の上へ石段が真っ直ぐに伸びていました。石段を登りきると、そこには大きくてきれいな神社がありました。伊射奈岐神社は寛永13年(1636年)江戸時代の時に建設されました。拝殿の前には狛犬が立っていました。狛犬の役割をガイドの方に質問をすると、狛犬を置くことで神様を守ることが出来るということでした。だから沖縄県のシーサーや神社などではよく狛犬が使われるのだなと意味が分かりました。境内では「遥拝所」がありました。伊勢の方向を向いてお参りする場所があり、日本の平和を祈る気持ちを持つことが大切であると考えられ、建てられた場所だそうです。伊射奈岐神社に奉納された絵馬を見ると、安産や結婚の事が多く書いてありました。そこでガイドの方に質問すると、伊射奈岐神社は伊射奈実命(イザナミノミコト)が主祭神であり、結婚・安産・厄よけなどのご利益があると言われました。10月になると神社周辺で秋祭りがあります。神社では出店や神輿などがあり地元の方々がたくさん訪れて賑わうそうです。とても地元から愛されている神社だと思いました。
 3つ目は、向かい坂と地蔵指標です。天童から佐井寺へ向かう道と岸部の小路から佐井寺へ向かう参詣者の出会う場所です。佐井寺交番の向かいには「向かい坂地蔵」と呼ばれる13体の地蔵像がありました。中央の地蔵には右吹田・左岸部と書かれていて地蔵というより道標とされていて面白いなと思いました。
 私は、吹田市ではエキスポシティや万博記念公園など有名な場所しか知りませんでした。しかし、佐井寺でまち歩きをして、ガイドさんの説明を通じて吹田市の神社の魅力や地域の方々の暮らしを知ることが出来ました。
 

佐井寺界隈約6kmのまち歩き
3年生 中谷 賢斗

私は5月11日に専門演習ゼミのフィールドワークで大阪の吹田市にある千里山の佐井寺周辺を散策しました。阪急千里山駅から佐井寺周辺を歩きました。
 まず、千里山団地に向かいました。昭和31年1月に着工し、同年12月に完成した、49棟1061戸の団地です。その近くには千里山・佐井寺図書館があります。昔は千里第二小学校の旧講堂と旧木造校舎でした。千里二小の出身者は、吉野彰、藤田田、筒井康隆氏などです。現在は、図書館ですが、知らずに見ると今も小学校だと間違えるだろうと思いました。
 少し歩いて、茅葺の民家に向かいました。「あルック吹田」に大きな屋根が美しいと記されている旧家です。佐井寺集落には他に2軒茅葺屋根があります。全部がその屋根ではないのでとても目立っていました。その近くに愛宕神社があります。旧佐井寺村の中では最も高いところで、標高は74.4mです。奈良時代に、行基がこの山の瑞光を感得し、十一面観音菩薩像を掘り出し、佐井寺の本尊としました。そこからの景色はとても良く、夜景も見てみたいと思いました。
 次に、佐井寺伊射奈岐神社に向かいました。武内社、山田の姫宮、佐井寺の奥宮と呼ばれています。社殿右側に6世紀頃の須恵器窯跡が残されています。絵馬を書いて祈願しているものがありました。次に「おかうずゐ」池(佐井寺本堂の裏)に向かいました。おかうずゐは「お香水」と読み、病気の回復、特に眼病に効き目がある霊水として信仰を集めました。その目の前に佐井寺があります。高野山真言宗の寺で、創建時には山田寺と名乗っていました。中は意外と広く、観音堂、手水舎、鐘楼、釣り鐘、護摩堂(不動堂)、薬師堂、地蔵塚・地蔵堂、下馬石と様々なものがありました。釣り鐘がとても大きくて、年を越す時に友達とここへきて鐘を鳴らしてみたいと思いました。
 少し歩くと、くり抜き水路跡があります。旧岸部村は、吹田市最大の用水池・釈迦が池を利用していましたが、毎年のように村どうしの水争いが絶えませんでした。この水問題を江戸後期の明和年間に260mの手彫りのトンネルを作り解決を図りました。昔の人々の高度な技術力と知恵、努力はすばらしいと感じました。
 ここから別の道で駅まで向かっていき、途中にある西宝寺は、中世末に一向宗の佐井寺村惣道場として始まり、江戸時代初期の寛永6年(1629)に創建されました。そして、向かい坂と地蔵道標を見ました。天童から佐井寺へ向かう道と、岸部の小路から佐井寺へ向かう参詣堂の出会う場所です。この位置に建てられた石造物が、佐井寺交番向かいに「向かい坂地蔵」と呼ぶ場所にあります。享和3年(1803)・文化7年(1810)と彫られていて、「右 吹田」「左 岸部」と刻まれており、道標とされています。向かい坂は、歴史の流れを今に伝える静かな風景の一部だと感じました。地蔵道標は旅人や村人たちの心の支えとなった存在だということがわかりました。
 そこからさらに歩き、菅廣房の墓に向かいました。延喜式 式内社の危機を救った菅廣房の墓が、大庄屋谷(たに)家の墓地の中央にあり、伊射岐神社を見つめています。次に、佐井寺南が丘公園に向かいました。「吹田のへそ」として地理的に吹田市のほぼ真ん中に位置する約1ヘクタールの公園です。遊具も結構大きくて、ここが地元だったら子供の頃よく来ていただろうと思いました。
 最後は、千里山東にちご公園に向かいました。にちご公園は土地区画整理事業で造成され、吹田のヘソ公園と言われる佐井寺南が丘公園の西に位置し「白虎」を表しています。隣の給水タンクの場所は、行基が「出現の地蔵(木造地蔵菩薩立像)」を掘り出したという由来から「地蔵塚」と呼ばれました。ここも遊具が多く、実際行っている時に子供たちが多くいて人気の公園だと思いました。
今回のフィールドワークを通して、吹田市の歴史や文化に触れるとても良い機会だったと感じました。それぞれの場所の由来や歴史的背景が詳しく聞けて、地域の豊かな歴史を学ぶことができました。
 

吹田市をこの目で学ぶ
3年生 中山 祥哉

 私は5月11日にゼミのフィールドワークとして吹田市を訪れました。吹田歴史文化まちづくり協会の吹田まち案内人の方とともに5kmという距離を歩いて、吹田市について学びました。
 千里山団地は、昭和31年1月に着工され、同年の12月に完成しました。49棟1061と戸ある団地です。北大阪電気鉄道の終点であった「千里山駅」の西側には、イギリスのレッチワース田園都市をモデルにした「千里山住宅地」が誕生しました。また、戦後は駅の東側に「千里山団地」が建設されました。このように千里山団地はとても前から建てられたことがわかりました。
 写真は、千里山・佐井寺図書館です。千里第二小学校の旧講堂と旧木造校舎を建て替えて、平成16年(2004)図書館に生まれ変わりました。平成30年の蔵書は27万5千冊、中央図書館の25万冊を超え市立図書館では最大の規模です。千里山・佐井寺図書館の前である千里第二小学校の出身者は吉野影です。携帯電話やパソコンなどで用いられるリチウムイオン二次電池の発明者の1人で2019年にノーベル科学賞を受賞しています。
 次に訪れた愛宕神社は、写真にある階段から上がります。標高74.4mにあり、旧佐井寺村の中では最も高いところにあります。愛宕神社の御神祭は火之加具土神(ひのかぐつちのかみ)です。伊邪那岐神(父)と伊邪那美神(母)の間に産まれた神です。しかし、火の神であった為に、出産をした伊邪那美神が火傷を負い死んでしまいました。これに怒った伊邪那岐神に殺されてしまい、火之迦具土神の流した血から数々の神が生まれる事になったという、とても悲しい神が祀られています。現地では御神祭のことが書かれていなくて分からなかったので、知ることができて良かったです。
 途中で、くり抜き水路跡の説明を聞きました。旧岸部村は、吹田市最大の用水池・釈迦が池を利用していましたが、村同士の争いが多く、手彫りで水路が作られたと言われています。当時の技術から考えると、非常に難工事であったと考えられ、当時の人々が農業用水を確保するためにいかに苦労したかがわかりました。

 このフィールドワークを通して、実際に現地に足を運ぶことで、データや統計だけでは得られない洞察や体験を得ることができました。また案内人の方が丁寧に教えて下さったお陰で自分たちだけでは知ることのなかったことを多く聞けて勉強になりました。フィールドワークは労力と時間がかかるものですが、この経験は学問的な側面に限らず、人間的な成長につながると感じました。

参考文献

 

千里山の街並みと歴史を感じたまち歩き
3年生 内海 蘭

 5月11日、私は、千里山の街並みと歴史の数々に触れてきました。散策の順路としては、阪急千里山駅→千里山団地→千里山・佐井寺図書館→茅葺の民家→愛宕神社→佐井寺伊射奈岐神社→ おかうずる池→佐井寺→くり抜き水路跡→西宝寺→向かい坂と地蔵道標→菅廣房の墓→佐井寺南が丘公園→千里山東にちご公園へ行きました。その中で私の印象に残った場所は、愛宕神社と佐井寺伊射奈岐神社です。
 愛宕神社は、日本全国に存在する神社で、多くは火災からの防護の神を祀っています。火伏せの神「愛宕大権現」である御祭神としての主祭神は、火産霊神で火防の神として信仰されています。愛宕神社は、火防だけでなく、商売繁盛や交通安全の神としても信仰され、幅広いご利益を求める参拝者が訪れます。愛宕神社は旧佐井寺村の中では一番高いところにあります。標高は74.4m。奈良時代、行基がこの山の光を感得し、十一面観音菩薩像を掘り出し、佐井寺の本尊としました。
 佐井寺伊射奈岐神社は、古くから地域の信仰の中心として親しまれてきました。主な特徴には、主祭神は伊邪那岐命と伊邪那美命です。この神々は、日本神話における国生みの神々で、夫婦和合や家庭円満、安産、縁結びのご利益があるとされています。神社の創建は古く、詳細な創建年は定かではありませんが、地域の古い伝統を持つ神社として知られています。神社の境内には、美しい本殿や拝殿があり、歴史を感じさせる佇まいが特徴です。佐井寺伊射奈岐神社は、地域の人々にとって大切な信仰の場であり、歴史と伝統を感じさせる神社だと感じました。家庭の安泰や縁結びなどのご利益を求めて、多くの参拝者が訪れるそうです。また、社前に「伊射奈岐社一座」と刻む社号が建っています。社殿右側には、6世紀頃の須恵器跡が残されています。
 道中には、歴史ある建造物がある街ならではの雰囲気や公共設備が整っていました。例えば、小道や坂道が多くあり、行く先々で緑が生い茂っているかと思えば、高級住宅街のような大きい家が沢山ありました。
 私は歩いてみて、千里山は自然環境と都市機能が調和した住みやすいエリアで、教育施設の充実や交通アクセスの良さなど、多くの魅力を持つ地域だと感じました。特にファミリー層にとっては、子育て環境が整っている点も大きな魅力だと思いました。今回のまち歩きを通して、私が強く感じたことは、歴史を残しながらも、街は進化し続けているという点です。