早いもので、今年も卒業式を迎えるシーズンとなった。国際コミュニケーション学部では、大学2年次の前期に「専門演習アプローチ」という授業を全員が履修し、その中でゼミ担当教員が2・3名ずつゼミ紹介を行い、学生たちは担当者全員のプレゼンテーションを聞いたのち、希望する研究室を訪問。学生も教員も互いに質問をするなどしたのちに、ゼミ選考を経て、ゼミ担当者との出会いがはじまる。
 こうして今年のゼミ学生とも、2年半以上の歳月を費やして顔を突き合わせ、議論などをし、時には懇親会を行ってきたので、当然そうした学生たちの個性も次第にわかってくる。そのような中で、賀川ゼミでは毎年、テーマ選択の動機やキーワード、キーフレーズ、そして章立てと参考文献についてゼミ生の前でプレゼンをし、「その人らしさ」、「そのテーマへの熱意」、「資料」を基準として、3回生が終了するころまでに、各自で卒業研究のテーマを設定している。
 本年度も例年通り、4回生の4月以降、ゼミでのプレゼンと指導を続け、卒業研究の第1回提出日を大学祭前である10月末日と設定。その時点までにゼミ内で議論してきた内容が盛り込まれているか、論理的な矛盾がないか、そしてケアレスミスがないかどうかを担当者が確認し、12月の最終提出日に向けて、さらにより良い卒論となるよう指導を続けてきた。
 2018年度のゼミ生の卒業研究には、時代を反映したものとしては「日本e-sports市場における今後の発展—海外市場と国内市場の比較」、「おもてなしの心で戦争阻止へ」、「人工知能と人間」、「Jリーグ経営—未来へ向けての提言」などが挙げられるが、担当者が独自に選んだ最も個性を反映した卒業研究はと問われれば、田原希隆君の「時代とともに流動するハリウッド映画—ゆき過ぎたポリティカル・コレクトネスがもたらす影響」と大瀬佑允君「アメリカの『ヒップホップ』という音楽の素晴らしさ」の2本の卒業論文であるといえよう。偶然にも、二人ともそれぞれアメリカのワシントン大学、そしてオレゴン大学に留学し、出発前からの関心を現地でさらに深めて帰国した学生たちによるものである。
 田原君の卒論は、「執筆者が映画を観ていて特に違和感を覚える場面は、日本人や日本文化、アジア人が描かれる描写だ。(中略)多様化のために無理やりアジア人が起用され、実際にはそこにしっかりとした考証は無く、表面的な物やステレオタイプを見せられることが多い。悪い点ばかりが気になり、映画の内容に集中できなくなってしまうことがある」ことがきっかけとなった。しかし同時に、「今日の映画には、ポリティカル・コレクトネス(political correctness)という、他者に対し、とりわけ人種、性別、性的嗜好、国籍、宗教、年齢、性別、身体障碍などへの配慮と寛容さを示し、差別的な表現をなくそうとする考え方が製作段階で色濃く反映されている。ただ時代や世相の流れにうわべだけ乗っただけでは、そのテーマをうまく取り扱うことができずに、作品としても出来の悪いものばかりが生まれていく。人々を守るはずの配慮が、ありとあらゆるモノに対して常に八方美人でなければならないという圧力に変わり、芸術作品としての映画の可能性を大きく狭めてしまっている」と、近年のハリウッド映画界における傾向に同調するのではなく、むしろ疑問視することにより、そこから検証がはじまっている。そして「ハリウッド映画の歴史と今を見つめ直し、この他者に対する配慮がどこまで及ぶべきか、どこまでが適切なのかを考え、人種や性など、自身と違う他者への配慮のあるべき姿を考察」しているところに特徴がある。
 大瀬君の卒論によれば、「ヒップホップには4要素(DJ、ブレイクダンス、グラフィティ、ラップ)があるとされている。主要な音楽楽器は使用せずに、分かりやすく言えば、ラッパーがラップをする音楽である。その歌詞には自己表現や自分が育ってきた環境(中略)などマイナスなイメージが多い。だから、あまり年齢層の高い人々からは『野蛮な音楽』と好まれなかった。一方で若い年齢層からは爆発的な人気を誇ったのである」とあり、それはなぜなのだろうかという疑問から論文が展開される。ヒップホップ好きが高じて、2万字を超える大作となった。
 こうした大作は、決して一夜漬けでは生まれない。本年度は、阪南大学学会事業の一環である「学部・大学院教育研究活動助成事業申請」に基づいて、卒業研究を書く上でのノウハウについて書かれた参考文献を数冊購入し、2年次生から卒業研究を意識したゼミ運営を展開。2年後に、各自の卒業研究を完成させる喜びを味わってもらうという、いわば大輪の花を咲かせてもらうための種まきをはじめた。今後も、第二の田原君、大瀬君を目指して、ゼミ活動にもさらに力を注いでいきたい。