2017.9.20

【阪南経済Now(2017)⑫】新古典派経済学の世界と「空間」の包摂-経済地理学からのチャレンジ

新古典派経済学の世界と「空間」の包摂−経済地理学からのチャレンジ

「空間」や「地域格差」を生み出す内在的論理=過程こそ重要

 これまで一貫した私の問題関心は、経済活動が生み出す「空間」が経済学の内在的論理によって、どのように形成され、そこから発生する問題=地域問題への政策的アプローチという一点にあります。こうした課題は、経済地理学や地域経済論の分野で専門的に扱うということになりますが、必ずしも芳しい成果をあげてきたわけではありません。ある地域の特定の経済現象についての実態分析や企業の立地や地域的分業体系の実証分析など、「地域」に関わる問題群を地理的な手法で解明した多くの業績を積み重ねてきました。
 しかし、これまで経済学と真正面から向き合い、経済学の内在的論理や法則が作り出す「空間」形成のあり方を原理的に深く突き詰める視点は、たしかに弱かったことは否めません。このことを不問にした政策論議や提言からは、たとえば「国民経済の地域的な均衡ある発展」といったところで、政策を方向付ける理念型を語る以上のものは出てこないかもしれません。グローバル化が進展する中で、日々生活する人々の「生きられる空間」は、あくなき価値増殖を自由かつ効率的に推進したい企業・資本にとっては制約要因であるため、それを自らが活動しやすいように作り変えて利用し、ときには放棄や破壊して他の地域に活躍の舞台を見出します。
 こうした動きに対して、経済学の論理と方法的枠組みを用いて、苦しくとも地道に追究していくことこそが、本来の経済地理学に課せられたミッションであると考えています。地域ごとの経済現象の多様性を分析し、調査やフィールドワークなどを通じて、地域の個別事例研究の成果として数多く積み重ねることのみに拘泥することは、たしかに逃避や知的怠惰と言われても仕方ありません。

経済活動の集積と分散のメカニズム−空間なき新古典派経済学の世界との格闘

 経済地理学の分野が方法論をめぐって、絶えず苦労しなければならない理由は、向き合うべき経済学に「空間」が明示的に取り入れられていないからです。特に格闘すべきは、広く教科書として「制度化」されている「新古典派経済」で、その精巧に彫逐された世界は「空間」なき世界となっています。逆に言えば。「空間」という障壁や制約を考えないからこそ成り立つ世界で、そこでは地域に足を付けない近隣の人々とも交流のない経済人が前提とされています。
 この世界に生活人が活動する「空間」を取り入れて、より現実化した世界に近づけるためには、生産−消費の循環に「流通」=「距離」、いわゆる「輸送費」の要因を考えることは重要にはちがいありません。しかし、もっとも重要なことは、「輸送費」との関係で、新古典派が前提としている「収穫一定」という厳格な前提条件を崩す必要があります。生産の規模が収穫逓増によって拡大すれば、多数の生産者が自由競争する完全競争という前提条件が崩れ、不完全競争(寡占・独占)というよりリアルな現実の世界に近づき、大都市圏の集積経済と過疎の農村地域など、経済的に繁栄した地域VS経済の貧困・衰退地域の格差構造が生み出されるメカニズムが原理的に解明されることになります。大きなかつ多様な需要=マーケットを獲得するための収穫逓増=資本蓄積は、今日のグローバル経済では当たり前のことで、P.クルーグマンや藤田昌久らは、新経済地理学の旗手として、格差を生み出す大都市=集積経済の存在論拠を中心(核)−周辺モデルとして鮮やかに析出しました。このモデルでは、結論を言えば、「輸送費」(氷塊型輸送費)が低下すればするほど、経済活動の中心地域への「集積」が増すということで、ICTの急速な進展や国境の制度的障壁が緩和される今日のグローバル経済の現実に適合するものとなっています。そして、このモデルは、国家間に生産要素のモビリティが存在しない従来の貿易論が、広く経済地理学の特殊な一分野に位置づけられるという貢献にもつながりました。 
 因みに、新古典派経済学の世界と根本的に矛盾する「収穫逓増」の問題は、A.マーシャルの説明論拠、それに果敢に問題を申し立てたP.スラッファを経て、J.ロビンソンの不完全競争論という経緯をたどり、さらに製品の多様性への選好を取り込んだA.ディキシット、J.スティグリッツのモデル等を経て、ようやくその研究成果の一端が「空間経済学」=新経済地理学に結実しました。「収穫逓増」と経済活動の「空間」利用と処理のあり方は密接に関係する内生的要因であるだけに、今後とも追究されなければならない根本的課題です。

さらに深く知りたいことは、地域格差の社会的望ましさ

 クルーグマンモデルからは、中心(核)−周辺の空間メカニズムによる「循環的因果関係」が生み出され、地域格差が形成される内生的過程が明らかにされることになりました。しかしながら、それを「地域問題」として問題視する論拠は依然解明されていない状況です。どの程度の格差の水準であれば、社会的に許容されるのか、その望ましさについての一般的指標は、今のとこと解明されていないままです。そうだとしたら、たとえば、きわめて現実的な東京一極集中の地域構造や人口減少による過疎高齢化地域などの状況について、それを是正されるとされる「地域政策」や「国土政策」は、どのような指標にもとづいて判断すればよいのでしょうか?また、外部経済(金銭的・技術的外部経済)をモデルに組み込んでいないモデルでは、現実的に有効な政策的提言すらできないのが実情です。
 新古典派経済の世界がゆるぎなく、強力に制度的に受け入れられる背景には、何よりも「希少資源の効率的配分」という理念を徹底的に彫逐し、この観点から「社会的望ましさ」を解明する試みを行ってきました。今後、「地域格差」の望ましいあり方についても、納得できる定式化された説明論拠が要請されることになり、そうでなければ政策的判断による「あるべき方向」へ導くための基準となる地域構造の理念型が描けなくなってしまいます。
しばしば提起される「国土の均衡ある地域発展」から「規制緩和による地域の産業振興」への転換などの政策的提言などは、グローバル化という現実を追認した恣意性きわまりない言説といわなければなりません。

さらに、立ちはだかるアポリア−民主制度、国家主権、グローバル経済のトリレンマ

 今日のグローバル経済を前提にすると、地域の住民が経済的に豊かで自立して暮らせるローカル経済を再生させるうえで、解決しがたい難問が立ちはだかっています。すなわち、ハーバード大学のダニ=ロドリックの『「グローバリゼーション・パラドックス』において定式化されているように、グローバル経済、国民国家、民主制度は各々独立しておらず、同時に3つは実現しないというアポリアに直面しています。
 これまでの地域政策や国土政策は、国民国家を前提に、経済民主主義にもとづいて、再分配政策を通じて貧困・衰退地域への所得や資源配分を優先的に行うという発想がありましたが、もしこれを実現すれば、国境を越えた企業活動や投資によるグローバル経済=経済統合化は否定しなければなりません。現在進んでいる現実の動きは、グローバル経済への対応を急ぐべく、市場経済に親和的な規制緩和や租税政策などの諸政策を採用し、これまでの民主制度を傾向的に犠牲にする流れとなっています。今日のグローバル経済を追認し、国家主権を確保しようとすれば、民主政治が犠牲にされるという構図となっています。まさに東京一極集中の地域構造は、こうした動きに呼応して、ますます加速化し、その一方で、ローカル経済は人口減少と高齢化によってますます疲弊・破壊されるようになっています。
 国民経済=国家主権が、グローバル経済とローカル経済の狭間にあって大きく揺れ動きながら、東京をはじめとする大都市圏VS衰退・消滅の危機にある地方、それを反映した一握りの富裕層VS多数の貧困者の格差構造が国内に分断社会を生み出す状況にあります。これは世界的な傾向で、そうした中で、資本の無定見・無軌道な価値増殖過程をコントロールしつつ、ローカル経済のみならず大都市経済に住み人々の暮らしを「豊かで経済的に自立した安心・安全の空間」の中で送れる方策を探求していくというアポリアの地点に立たされています。限界集落に象徴される地域の消滅の危機を何とか食い止めなければという思いで、
 私は経済地理学の学問的可能性を探究し続けています。