ゼミ生の海外調査旅行(ヨーロッパ)

 9月に、塩路研究室の3年生6人が、英国をはじめとして、グループに分かれてフランス、ドイツ、スペイン、イタリアなどのヨーロッパ諸国を旅行しました。今回は、各自が関心をもったテーマについて見聞してきた内容を報告します。

イギリス・フランス・スペインの食文化
3年生 山口 実土里

 今回のゼミ海外調査では、各国の食文化に目を向けてみました。同じヨーロッパの国であっても、それぞれに異なる特徴や興味深い発見をしました。中でも特に印象的だった食文化について振り返り、その食文化が持つ歴史的背景を探ります。

<イギリスの食文化>
 初めてイギリスらしい料理を口にしたのは、ホテルの朝食でのフル・ブレックファーストでした。バイキング形式で、ベイクドビーンズ・マッシュルーム・ソーセージ・トマトソテー・コンポートフルーツ・スクランブルエッグ・チーズ・シリアル・パン・フルーツジュース・紅茶等が数多く並んでいました。ベイクドビーンズは豆をトマトで味つけしたシンプルな味で、マッシュルームは限りなく無味に近かったです。ソーセージにはパン粉が混じっており、飢饉の非常時に入れられたことが起源と言われています。食後に飲んだ紅茶は、ティーパックとは思えないほど茶葉の香りを楽しめました。このイギリスの朝食スタイルは、19世紀のビクトリア女王時代に完成し、体力勝負の農民は作業の前にしっかりと朝食を摂ることで、昼間の過酷な労働に備えていました。また、この朝食スタイルは満足に昼食を摂ることが難しいとされていた都市部の上・中流階級からも歓迎されました。
 

 コッツウォルズでは、イギリスの最も代表的なファーストフードであるフィッシュ&チップスを堪能しました。大きな一皿に、レモンの乗った白身魚のフライ・チップス・グリーンピースと、モルトビネガー・ケチャップ・マヨネーズ・タルタルソースが添えられていました。イギリスではフライドポテトをチップスと呼び、ポテトチップスをクリスプスと呼びます。味付けはほとんどされておらず、豊富な調味料を好みに応じてつけるといった、食べる側の意思を尊重するイギリスらしい料理であると感じました。18世紀後半、労働者が仕事終わりに屋台に立ち寄り、揚げたての白身魚とジャガイモを新聞紙に包んで持ち帰ったことから誕生した、最初のファーストフードであると言われています。一般的にイギリス料理はまずいとされていますが、実際に味わって感じたのは、簡易に供されるシンプルな料理が多いということでした。

<フランスの食文化>
 フランスでは、日本にも最近浸透しつつある本場のガレットを堪能しました。フランス発祥のガレットは、塩気のある食事系クレープのことで、そば粉のものが一般的です。日本でデザートとして親しまれているクレープは、甘いクリームやフルーツをラッパ状に巻いてかぶりつくスタイルですが、フランスでは食卓やレストランで、ランチやディナーとして、生地を平たく折りたたみナイフとフォークで食べることが多いです。通りすがりの地元の人に街で一番有名なガレット・クレープ専門店を聞き出し、ディナーを楽しみました。大きなお皿にはみ出る位のそば粉で作られた生地の上に、ベビーリーフ・サーモン・2種のチーズ(クリームチーズと表面が焼かれたチーズ)・レモンが添えられていました。生地はモチモチ食感、ほんのり感じる塩気がサーモンやチーズとマッチしており、立派な食事として成り立っていました。かなりの量だったので、満腹になりました。ガレットの歴史は紀元前7000年ブリュターニュ地方に始まり、フランス全土に広まったのはフランス国王ルイ13世の時代です。妻のアンヌ王妃がブリュターニュに訪れた際に気に入り、宮廷料理に取り入れました。当時はそば粉に塩と水を混ぜ、鉄板で焼くシンプルなものでしたが、19世紀になり、そば粉の代わりに小麦粉を使用したクレープが作られるようになりました。年月が経ち、現在では種類や形も豊富となっています。

<スペインの食文化>
 スペインの食事時間は日本より2時間ほど遅いので、レストランの営業時間には特に気を配りました。滞在日数が短い中、複数のレストランでパエリアを食べ比べました。大きなフライパンにムール貝やエビが乗ったシーフード系は、特に魚介の旨味が効いていました。全体的に濃い味付けで塩辛く、オリーブオイルがふんだんに使われている印象を受けました。パエリアはバレンシア語でフライパンを意味し、バレンシア地方の外にフライパンを用いた料理法が伝わるうちに、調理器具よりも料理の名称として浸透していきました。
 また、スペインでは個人経営のパン屋を見かけることが多く、甘いデザート系のパンやケーキ類が豊富に揃っていました。アーモンドやナッツを飴がけにしたお菓子は甘さ控えめで香ばしく、癖になる味でした。スペインの菓子は、製菓の歴史において大きな役割を果たしたとされています。イスラム教徒によって伝わった砂糖やアーモンドが修道院を通して各地に普及し、多くの修道院では中世イスラム文化の影響を受けた伝統的な菓子が作られています。
 他にも、精肉店では生ハムを食べ歩きできるスタイルで販売していたり、生ハムをスライスしている様子を目の前で眺めることもできました。バーにはつまみとして必ずメニューに登場し、スーパーには生ハム味のスナック菓子が売られていたりと、生ハムはスペインの人々にとって欠かせない食材であると感じました。

大航海時代の栄華の記憶 〜世界遺産「リスボンのジェロニモス修道院とベレンの塔」〜
3年生 田中 葉月

 私は、9月にユーラシア大陸最西端の国家、ポルトガル共和国の首都リスボンを訪れました。人々は温かく陽気で、町は特徴的なタイルであるアズレージョやヨーロッパ建築の華やかさがありつつ、どこか素朴で懐かしさを感じさせるような、とても魅力的な所でした。
 ポルトガルは15世紀半から17世紀半にかけて続いた、ヨーロッパ人によるアフリカ・アジア・アメリカへの大規模な航海が行われた大航海時代の主な国として知られています。大西洋がどこまで続いているのか、その向こうに何があるのか誰も知らなかった時代、命知らずの航海士達の活躍によってポルトガルは海上帝国を成立させました。この時代の記憶を留める文化遺産として残されているのが「リスボンのジェロニモス修道院とベレンの塔」です。

 ジェロニモス修道院とベレンの塔は、ポルトガルの首都であるリスボンから路面電車に乗り約30分、テージョ川沿いを6?ほど西に進んだベレン地区に位置します。このベレン地区は、ジェロニモス修道院の修道女によって発明されたポルトガルスイーツの「パステル・デ・ナタ」、通称エッグタルトの発祥地で、探検家であるヴァスコ・ダ・ガマがインド航路を発見した際に出発した地としても知られています。ジェロニモス修道院とベレンの塔は、1983年にポルトガル初の世界遺産として登録されました。その理由として、かつての大航海時代とポルトガル海上帝国の栄華の記憶を留めるだけでなく、16世紀にポルトガルで海に関する装飾が施された建築様式であるマヌエル様式の代表的傑作として高く評価されたからです。2008年には、ジェロニモス修道院とベレンの塔周辺の景観保護が一体的に行われていなかったことが見直され、ベレンの塔の緩衝地域設定の範囲拡大が行われました。
 ジェロニモス修道院は、ポルトガルの王であるマヌエル1世がエンリケ航海王子とヴァスコ・ダ・ガマの功績を称えるのとともに、航海の安全を祈願して大航海時代の富をつぎ込んで建築されました。1502年に着工されましたが、マヌエル1世の死やポルトガルとスペインの同君連合による中断等があり、完成には300年ほどかったそうです。建築資金は、ヴァスコ・ダ・ガマにより持ち帰られた香辛料の売却による膨大な利益によって賄われ、その後も香辛料貿易による利益が資金源となりました。繊細な彫刻が施された修道院は全長300mと圧倒されてしまうほどのスケールです。南門のファサードには、イエス・キリストを抱く聖母マリア像を囲むように24人の聖人が配置されています。西門から中へと進んでいくと中庭を囲んで55m四方の回廊があり、この回廊は修道士の祈りと瞑想のための空間だったと言われています。天井はアーチ状になっていて、石灰岩でできた白い回廊内はマヌエル様式の特徴でもある珊瑚やロープなど海に関連した装飾が施されており、見る人の心を一瞬で奪うような素晴らしい彫刻でした。

 一階には、船乗りや巡礼者などの信者達が修道士に懺悔をする告解室が12室も並んでいます。また、黄色と青色が目を引くアズレージョが施されている食堂も残されていました。当時の手洗い場のようなものも残されており、修道士達はここで食事をしていたそうです。二階へ上がると聖歌隊席を見学することができます。そこからカラフルなステンドグラスが輝くサンタ・マリア教会の内部も見渡すことができ、この教会の内部にも足を踏み入れることが可能です。ポルトガル史上最大の詩人といわれたルイス・デ・カモンイスとポルトガルの航海者であるヴァスコ・ダ・ガマの石棺が安置されているサンタ・マリア教会は、一階の南門を向かって左に位置しています。教会の内部は天井が高くアーチ状になっており、とても開放感のある創りとなっています。教会の中央には聖母マリアとヨセフの像があり、聖母マリアの手には幼いイエス・キリストが抱かれていました。

 サン・ヴィセンテの塔、通称ベレンの塔は、ジェロニモス修道院と同じマヌエル様式の5階層の塔でインド航路の開拓を記念して建造されました。白く美しいベレンの塔ではテージョ川を行き交う船を監視し、ベレン港を守る要塞として使われていたそうです。そして、ヴァスコ・ダ・ガマをはじめとする多くの航海士達がここから海へと旅立っていきました。塔内に入ると、小さな窓からテージョ川に向かって顔を出した大砲が数台置かれている攻撃用の部屋に繋がります。ここの下にある地下部分は当時政治犯を閉じ込めるための水牢として使われており、潮の干満差を利用して水が入り込む仕掛けになっていたそうです。上へ行くと、そこには聖母マリア像が立っています。大航海時代、ポルトガルの船はこの塔を見ながら大海原へ出航し、テージョ川から外洋に出る船乗りたちがこの像に向かい航海の安全を祈りました。ベレンの塔をよく見てみると、球体の装飾がちらほらと目に入ります。これは、土地のやせた寒いヨーロッパでは育てられなかったコショウをかたどったものです。遠いインドから運ばれたコショウは中世ヨーロッパでも驚くほどの高値で取引されたそうです。

 さらに細い階段を上っていくと、ベレン地区を一望できるテラスに繋がっていきます。テージョ川はもちろん、対岸のアルダマの街を一望できます。また、1966年に造られたリスボンとアルダマを結ぶ「4月25日橋」もみることができます。この橋はアメリカにあるサンフランシスコ・オークランド・ベイブリッジと同じ建設者であるアメリカン・ブリッジによって建造され、当時の独裁者アントニオ・サラザールの名にちなんでサラザール橋と呼ばれていました。しかし、1974年4月25日に勃発した軍事クーデター、カネーション革命の成功を記念し「4月25日橋」と改名されました。少し変わった名前の橋ですが、ポルトガルの歴史ととても繋がりの深い橋なのです。そして反対側を見てみると、広く青い空と青々とした緑の中にぽつぽつとオレンジの屋根が目に入ります。こちらは閑静な高級住宅街であり、各国の大使館や大使公邸が点在している地域を一望できるのです。

 私は、「リスボンのジェロニモス修道院とベレンの塔」を訪れて、いかに重要な歴史がここに刻まれているのかということを強く理解することが出来ました。もし命知らずの航海士達がいなければ、地球が丸くて先が続いていることを証明出来なかったかもしれないし、香辛料がヨーロッパに伝わらなければ食材の保存が難しく食べ物が不足してしまい餓死してしまう人が大勢いたかもしれないからです。また、ポルトガル特有のマヌエル様式を見て、ゴシック建築の特徴である高さや細さ、ルネサンス建築の特徴である石、イスラーム建築の特徴であるアーチ型、そしてマヌエル様式の特徴である珊瑚やロープ、貝殻など海に関連する装飾が上手く混ざり合い調和しているのがわかりました。それは、他のヨーロッパの国の建造物では見ることのできないない繊細さと美しさがあり、感動しました。ポルトガルを訪れてみてはじめて、世界史で大航海時代について学んだものの、日本人にとってあまり馴染みのない国であるポルトガルの魅力を一人でも多くの日本人に知ってもらいたいと思いました。

イタリアの世界遺産
3年生 薗田 輝弥

 私は、9月12日から16日までローマ、フィレンツェ、ミラノとイタリアを周遊しました。街を歩けば世界遺産があり、いくら時間があっても足りないほど魅力的でした。私が観たイタリアの世界遺産について書いていきます。
 最初にローマを訪れました。ローマには「ローマ歴史地区」という登録名で世界遺産に登録されている地区があります。そのローマ歴史地区の中にいくつもの歴史的建造物があります。まず私が見たのは「フォロ・ロマーノ」です。古代ローマ時代の遺跡で、紀元前6世紀から紀元前3世紀まで、古代ローマの政治や経済、商業の中心地として栄えました。元老院が置かれたクーリア、セベルス帝の凱旋門、バシリカユリア、サトゥルヌスの神殿、ウェスタの神殿など、修復・再建されたものも含め多数の遺跡があります。足元は土と石でできており、歩きにくかったのですが、当時の人々の生活を感じることができました。建物は現存せず、柱の跡だけといった所もありましたが、位置関係などを見て当時の様子を思い描くといった楽しみ方もあると思いました。また、ここからはコロッセオを眺めることができ、写真スポットでもあります。
 次に、フォロ・ロマーノの横にある「コロッセオ」へ行きました。5万人を収容した古代ローマの円形闘技場で、紀元72年に建設され、長径188m、短径156m、外周壁の高さ49mもあり、その大きさはローマの力と不滅の象徴でした。1階はドーリア式、2階はイオニア式、3階はコリント式と様式の違うアーチがあり、1階には皇帝、2階には市民が座り、3階は立ち見席になっています。また、地下は戦いを控えた人や猛獣が待機する場所でした。人やライオンなどの猛獣が死闘を繰り返し、古代ローマの人々を熱狂させていました。現在は死闘を繰り広げていた床はなく、地下が見えています。観光客としては、地下が見えている方が当時の様子を連想することができるのでありがたいと感じました。最上階にはコロッセオに関連する資料などが展示されており、知識を深めることもできます。夜にはライトアップされて、昼とは全く違うコロッセオを楽しむことができました。

 コロッセオを後にして「コンスタンティヌスの凱旋門」へと向かいました。古代ローマ時代の凱旋門で、後にローマ皇帝となるコンスタンティヌスが政敵だったマクセンティウスとの戦いで勝利したことを記念し、315年に建造されました。高さ21メートル、幅25.7メートルでローマ最大の凱旋門として知られています。意外と知られていないのですが、フランスのパリにあるエトワール凱旋門のモデルになりました。パリの凱旋門より古いというだけあって歴史を感じました。
 それから「バチカン市国」へ行きました。ローマ教皇が統治する世界最小の独立国です。面積0.44平方キロメートル、人口は802人で大部分が聖職者であります。バチカン市国の中には様々な建物があります。サン・ピエトロ大聖堂やバチカン宮殿、システィーナ礼拝堂、バチカン美術館です。サン・ピエトロ大聖堂は330年ごろにコンスタンティヌス大帝の命で着工され、1506〜1667年にかけてブラマンテ、ミケランジェロ、ベルニーニなどの芸術家たちによって増改築された世界最大のキリスト教建築物です。中は非常に幻想的で、天井が高く、柱も非常に大きく迫力に圧倒されました。ピエタなどの芸術作品もあり、見どころが満載です。また、シクストゥス4世によって建立されたシスティーナ礼拝堂は、教皇選挙、枢機卿会議など、教皇庁の重要な会議が行われる場所であり、ミケランジェロらによる壁画が有名です。
 翌日、フィレンツェへと移動しました。フィレンツェには「フィレンツェ歴史地区」という名前で世界遺産に登録されている地区があります。まずは、サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂へ行きました。キリスト教・カトリックの教会です。フィレンツェの大司教座聖堂であり、ドゥオーモ(大聖堂)、サン・ジョヴァンニ洗礼堂、ジョットの鐘楼の三つの建築物で構成されています。ジョットの鐘楼は最上階まで登ると、ガイドブックなどでよく見る景色を見ることができ、写真スポットにもなっています。街全体の屋根は赤茶色でこの街でしか見ることのできない風景で、ずっと見ていても飽きませんでした。

 フィレンツェから電車で1時間のところに「ピサのドゥオーモ広場」があります。ピサの斜塔は世界的に有名なピサロマネスク様式の大理石の鐘楼です。1173年にドゥオーモ大聖堂の鐘楼として着工し、200年後の1372年に完成しました。高さ55m、297段の階段があり、垂直の塔として設計されました。しかし、建設途上の13世紀に地盤が沈下して傾いていることが発覚し、傾斜を修正しようとしたができず、最上階部分だけが垂直になっています。現在は工事が行われ、傾斜は修正されています。ガリレオ・ガリレイが、落体の法則を証明する実験を行ったことで有名です。実際に見ると傾き加減が思っていた以上に強く、階段を登っていると塔の傾きに合わせて、自分の身体も傾いてくるというのを体験しました。過去に登った人も同じなのでしょうか、階段がそれに合わせてすり減っていました。
 最後にミラノへ移動しました。「サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会とドメニコ会修道院」へ訪れました。ここにはレオナルド・ダ・ヴィンチの『最後の晩餐』があります。絵はミラノ公ロドヴィコ・スフォルツァの依頼により、修道院の食堂の壁画に描かれました。420×910cmの巨大なもので、1495年に取りかかり、完成は1498年。イエス・キリストが磔刑の前夜に12人の弟子とともにした晩餐が描かれています。一点透視図法が用いられ、食堂があたかも絵の中に繋がっているような錯覚を覚えます。誰かがナイフを持っているなど謎の多い絵であり、思っていたよりも大きいものでありました。時間制でじっくりと見ることができなかったのは残念でしたが、一目見るだけでこの絵に吸い込まれてしまい、虜になってしまいました。
 イタリアは歴史的建築物や地区など文化遺産などの見どころが多く、世界遺産に登録された文化遺産の保有数も最大であるので、もっと時間をかけて回りたかったです。歴史的な建物ということで、高い所から景色をみようとすると階段が非常に多く、幅も狭いために体力や他の観光客との譲り合いが必要でした。どこをみても芸術的で、日本とは全く違う世界でした。将来、再訪し、今とは違う観点から観光したいと感じました。

ドイツの食文化 〜ソーセージ・ビール・ポテト〜
3年生 萩原竜太郎

 私が調べたテーマはドイツの食文化についてです。ドイツの食文化といえばポテトやソーセージ、ビールなどが思い浮かぶと思います。そこで一般的なそれらの食べ物やビールと日本の食べ物と何が違うのか調べようと思いました。
 私は9月15日から19日までドイツのミュンヘンに調査のため滞在しました。ミュンヘン空港に着いてからすぐにミュンヘン中央駅に向かいました。ミュンヘン中央駅を降りると、駅の中には多くのドイツ料理を扱う飲食店が立ち並んでいました。すぐに私は、ドイツといえばソーセージということで「ヴァイスヴルスト」というドイツ・バイエルン州の伝統的なソーセージで、よく挽いた仔牛肉、新鮮な豚肉のベーコンから作られる白いソーセージを食べました。一般的なソーセージと比べて味が薄く好みで調味料をつけて食べるとより一層おいしくなると考えました。またヴァイスヴルストに正午の鐘を聞かせるなと言われるほど鮮度が命のソーセージで午前中に食べるのが一般的です。私がこのヴァイスヴルストを購入したのは屋台のような形式の店で、多くのドイツ人もこの伝統的なソーセージを多く注文していました。また、ベルリン名物の「Curry Wurst」(カリーヴルスト)と呼ばれる、ソーセージを一口サイズにカットし上にはケチャップとカレーパウダーをかけた名物料理があります。これは大阪でいうところのたこ焼きのような感覚で、駅構内、空港内に必ずと言ってよいほど売っている国民的料理です。カリーヴルストにはポテトがついており、これをつまみながらビールを飲むドイツ人が多く見受けられました。この料理をパンにはさんで食べることもあるそうです。ドイツのソーセージには1,500以上の種類があります。私たちが想像するソーセージはフランクフルトやウインナーのようなものだけですが、血を使用したソーセージ、サラミのようなソーセージもあります。ドイツではソーセージの食べ方や形も様々です。焼いて食べるものやゆでて食べるもの、パンにはさむこともあれば、サラダとともに食べるものもあります。ドイツ人にとってソーセージは誰もが好んで食べる、ドイツ人が誇る食べ物の一つといえます。

 ドイツではパンも好んで食べられているということがわかりました。ドイツの多くの店ではたくさんの種類のサンドウィッチが並んでいました。他にもドイツにはプレッツェルという独特の形のパンがあります。固く焼き上げられるものと柔らかく焼き上げられるものがあり、私が実際に食べたのは柔らかいほうで、食べ方はまずプレッツェルの表面に付いている岩塩を手で払ってから食べます。味がないのではないかと思われるかもしれませんが、十分に塩味が付いており、すぐに食べられるので朝ご飯に調度よいと思いました。このプレッツェルはドイツ人のビールのおつまみとして食されているようです。さらにドイツのパブなどで、プレッツェル売りが回って販売する伝統もあります。
 次にポテトについてです。ソーセージを購入するとフライドポテトをつけるかつけないかを必ずと言っていいほど聞かれます。ほかにドイツだけでなくイギリス、フランスも訪れましたが、それらの国でも主食としてポテトは食べられています。ドイツの人々にとっては私たちの主食が米であるように、ポテトは主食として食卓に欠かすことができません。

 私が訪れたミュンヘンでは、9月17日から10月3日にかけて世界最大規模を誇るビールの祭り「オクトーバーフェスト」が開催されていました。オクトーバーフェストの歴史は1810年にさかのぼります。初回はバイエルン王子ルードヴィヒ1世と王女テレーゼの結婚の祝いとして開催されました。オクトーバーフェストとは「10月祭」の意味で当時の開催日が10月17日だったことからオクトーバーフェストといわれます。オクトーバーフェストはビールを売る従業員のパレードから始まり、ミュンヘン市長が最初のビール樽を開けることで祭りのスタートとなります。ミュンヘンの民族衣装を着て参加するのが定番です。そしてビールはすべてミュンヘンの企業によって作られており、会社によって味が違うので味比べすることもできます。またこの祭りで出されるビールは普段よりアルコール度数は6度程度と高くなっていました。私が飲んだビールは、日本の居酒屋で出されるものとは量がけた違いで1リットルも入る大きなジョッキでした。味も日本のビールとは違い、くせがなくフルーティーで普段ビールが苦手な人でも安心して飲めると思いました。またコーラとビールを割ってあるものやビールとレモネードを混ぜて飲むという飲み方など、ビールを甘くして飲む方法もありました。ミュンヘンの伝統的なビールは日本のものとは違い甘さやコクがあり比較的飲みやすいということがわかりました。おつまみには前述したプレッツェルやソーセージを食べながら飲むのが基本となっています。
 ドイツの料理の特徴としては、パンやソーセージのように手軽に食べられるようなものが多かったです。さらに、いたるところでビールが売られており、昼間からビールを飲むドイツ人もたくさんいました。それだけドイツ人にとってビールは生活の一部で欠かすことができないものなのだと感じました。ドイツの食べ物やビールは地元で獲れる食材を使って、伝統的な製法や味を後世に伝えてきたことで今も昔も変わらず愛され続けているということが今回の調査でわかりました。