子供たちの遊び場として親しまれる古墳 国際観光学部2回生 河野充宏

 今福義明君が調べたはざみ山古墳に続けて、野中宮山古墳・野中古墳・墓山古墳をめぐり、会議の行われる羽曳野市役所に向かいました。その3基が私の担当です。野中宮山古墳は、はざみ山古墳のすぐ南にありますが、その間には府道31号線が横切り、道に沿って建物が並んでいるため、互いに見通せなくなっています。府道から南に細い道を入ると、すぐさま左手に野中宮山古墳の周濠が見え、前方後円墳である古墳の姿が目に飛び込んできます。西向きに設けられた前方部には藤井寺南幼稚園があり、周濠の南側は埋め立てられて児童公園になっています。公園には遊具も設置され、付近の子供たちのいい遊び場になっているようです。藤井寺市に入ることもあってか、遊び場には藤棚が架けられ、季節になると薄紫の長い房と香りを楽しめることでしょう。
 後円部の頂には野中神社が鎮座しています。明治25年(1982)以前は産土神社と言われていました。明治42年(1909)からは幸国神社に合祀されていましたが、昭和25年(1950)に住民の強い要望と浄財によって元々の墳頂に社殿が復原されました。前方部と後円部の段差を利用して石段が作られ、主祭神であるスサノオノミコトを祀り上げるような景観に貫録を感じます。古墳の上に神社が祀られているのは珍しいことではないようですが、私にとっては驚きで、古市古墳群についての知識がまたひとつ増えました。古墳の規模は墳丘長が154mあり、古室山古墳と同規模です。埴輪の特徴から築造年代は5世紀前半と推定され、北にあるはざみ山古墳に先行します。幼稚園に児童公園に神社と、古墳はさまざまな施設に利用され、本来の姿がわかりにくくなっていますが、墳丘に植えられた桜の木はシーズンに多くの花見客をあつめ、藤井寺八景のひとつに数えられるそうです。住民の憩いの場として活用されている古墳の姿も、それはそれでいいような気もします。

 野中宮山古墳から東へ進むと、道が坂になり、羽曳野市役所に向かって土地が下っています。それでわかったのですが、はざみ山古墳や野中宮山古墳は小高い丘の上に築かれていたのです。古墳は見られることを意識して築かれますので、見晴らしのよい丘が選ばれたのでしょう。そういうことを考えながら墓山古墳の方向へ折れると、住宅の中に草だけが生えた小さな土の丘がありました。これが野中古墳です。1964年に発掘調査が行われ、鉄製の農耕具や武器・甲冑のたぐいが大量に出土して考古学者を驚かせました。古墳はその位置から墓山古墳の陪塚と考えられ、被葬者は主君について活躍した軍人でないかと推定されています。墳丘はかなり崩れているようですが、調査によって、1辺が37mの方墳であることがわかっています。周濠もあったようです。

 野中古墳から住宅の間の細い道を南に歩くと、すぐさま正面に濠と墳丘の森が見えてきます。これが全長225mの墓山古墳です。宮内庁が応神天皇陵の陪塚として管理していますが、陪塚というにはあまりに大きく、他の天皇陵と肩をならべる独立した古墳でしょう。水を蓄えた周濠を見ながら外堤にそった細い道を歩くと、まもなく羽曳野市役所の駐車場に着きます。「さて、いよいよ羽曳野市役所だ」と思って駐車場に入ろうとしたとき、気になるものを見つけました。墓山古墳の西側にもうひとつの森があり、道路脇に案内板が立てられています。仲間たちは会議の時間を気にして本庁に急いでいましたが、私は担当者ですので、走って案内板を見てきました。そこには向墓山古墳(むかいはかやまこふん)と書かれています。説明を読むと、1辺68mの方墳で、墓山古墳の陪塚であるそうです。この古墳も墓山古墳と同様に応神天皇陵の陪塚として宮内庁が管理していますので、立ち入ることはできません。ただ、四角い墳丘はフェンス越しに間近に見ることができます。墳丘は高さが10mと、かなり良好に残っていて、迫力を感じます。駐車場から本庁へは2階に通じる歩道橋が架かり、1階に向かって土地が急に落ちています。その斜面には桜の木がたくさん植えられていますので、4月に本庁の窓から墓山古墳を見ると、深緑の森を背景にした桜並木の鮮やかな桜色を楽しむことができそうです。
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