前方後円墳ではなかった雄略天皇陵 国際観光学部2回生 泉田真美子

 高鷲駅から雄略天皇陵をへて津堂城山古墳に至るまでのコースが私の担当でした。高鷲駅は住宅地の中にあって、北側のロータリーにはパンジーなどを植えたプランターが並べられ、花の風景を探る活動の幸先を予感されてくれました。雄略天皇丹比高鷲原陵への近道は宅地を縫う細い路地で、家々の庭に咲く白梅などの花を見ながら歩くと、10分ばかりで広い自動車道路に出ました。信号を渡った先に羽曳野市立「陵南の森総合センター」の建物が見えます。総合センターには福祉施設・公民館・図書館が併設され、広場にはお年寄りが集うゲートボール場が2つも設けられています。入り口近くに立つステンレス製のオブジェを横に見ながら広場の突き当りにある生きがい情報センターへ足をのばしました。建物の裏手から雄略天皇陵に治定された古墳の墳丘と周濠を間近に見ることができるのです。

 不思議なことに、地図では陵が前方後円墳のように見えたのですが、近づいてみると、前方部が平らで、しかも周濠によって後円部から切り離されています。これはどういうことかと思い、帰宅してから調べると、周濠に囲まれた後円部は、実際には島泉丸山古墳と呼ばれる直径76mの大型円墳で、前方部は平塚古墳と呼ばれる一辺50mの方墳を後世に取り込んだものらしいのです。天皇陵は前方後円墳でなければいけない、という考えによって、雄略天皇陵に治定されてから敷地を前方後円形に造りなおしたのでしょう。羽曳野市と松原市の境にある大型前方後円墳の大塚山古墳か藤井寺市の仲哀天皇陵(岡ミサンザイ古墳)が本当の雄略天皇陵だとする説もあるようですが、決着を見ていません。

高鷲駅にて集合

 平たい前方部はフェンスによって囲まれ、運動広場と密着していますので、前方部の東端に設けられた拝所に行くには、ひとたび総合センターの正門を出て、住宅地の道を進まなければなりません。古墳群をめぐるナビを制作する場合は、こういう点を伝えてあげる必要があるでしょう。拝所は黒い鉄柵で四角い敷地が作られ玉砂利が敷かれています。鉄柵の扉は二重になっていて、一般の参拝者は手前の扉で足止めされます。厳粛な空気を感じながら正面を見ると、丸太を組み合わせたような素朴な石の鳥居が立っています。神明鳥居という形式です。先生の話によると、天照大御神を祀る伊勢神宮の内宮が神明鳥居を立てているそうで、その子孫である皇室の陵墓に立てるのが習わしになっているとのことです。神明鳥居の奥は低い丘となっています。これが平塚古墳でしょう。南北の車道に沿って植込みのある参道が設けられていますが、花の咲く木でないのは、寂しい気がします。車道を隔てた東側は休耕田のような空地になっていて、陵前の景観はさほど窮屈ではないのですが、道は車がよく通るため、喧噪は避けられません。

街角の花

 津堂城山古墳へは住宅地の中を通ってゆきます。道に沿って流れる溝は住宅地の側溝としては立派すぎます。おそらく元来は広い田畑に水を送っていた用水路であったのでしょう。そう言えば、住宅地にはところどころに田畑が残り、付近一帯が田園であったことがわかります。溝には水が流れていますので、流れの方向によって土地の高低差を調べると、およそ南側が高く、北に向かって下っています。羽曳野丘陵が低くなりながらも続いているようです。土地は東西方向にも波打っていますので、何本かの川が流れていたに違いありません。さきほどの雄略天皇陵や次に向かう津堂城山古墳などは、川筋にかからない微高地に築かれているのでしょう。そういうことを考えながらしばらく歩くと、丹北小山下大船児童公園という小さな公園に着きました。ちょうど雄略天皇陵と津堂城山古墳の中間地点にあたり、簡易トイレもあります。絶好の休憩場所ですので、私たちもそこで足を休めました。高鷲駅から津堂城山古墳までは2キロあまりの行程ですので、見学が単調にならないような工夫が必要です。また、住宅地の狭い道を車が頻繁に通り、危険を感じることもありました。何度も訪れ、安全で意味のある道を探さねばなりません。現地を歩くと、そうした課題が見えてきます。
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