優勝の条件

全国で勝つための、最先端のサッカーを。

姜 英哲 氏
元 大韓民国サッカー協会 技術委員
元 韓国大学サッカー連盟 技術委員長
前 Kリーグ蔚山現代 コーチ
前 成均館大学サッカー部 監督
2015年9月22日、阪南大学サッカー部にすごい助っ人がやって来た。
韓国の強豪・成均館大学サッカー部で13年間監督を務め、韓国大学選抜チームも率いた姜英哲氏だ。日本の高校やKリーグでの指導経験もあり、初芝橋本高校をはじめ就任したチームをことごとく強化してきた。その揺るぎない指導の背景には、大韓民国サッカー協会技術委員を務めワールドカップにも派遣された分析力と、選手たちと徹底的に向き合う情熱がある。
「私は常に選手たちに最先端のサッカーを指導してきました」
臨時コーチとしての限られた時間の中、阪南大学サッカー部をどう指導するのか。姜氏の来歴や指導方針、そして今回の来日の使命について伺った。

3年目で高校サッカー選手権に出場する。

大学の先生より、サッカーの指導者になりたい。

——もともとプロの選手でいらっしゃったんですね。
成均館大学を卒業してKリーグでプレーしていました。でも、膝をケガして手術し、プロを引退したんです。1985年、25歳の時でした。それで恩師を頼って日本に留学し、桃山学院大学で体育学を学びながらサッカー部でコーチ兼選手としてプレーしました。
大学時代は須佐監督が指導されていた立命館大学とも対戦しましたよ。当時の監督は、若くて、声が大きくて、情熱的で一生懸命で…それは今も変わりませんね。

——そんな時代から交流があったのですね。その頃から指導者を目指しておられたんですか?
いいえ。大学に通いながら日本語を勉強し、大学院に進学して大学の先生になるつもりでした。それが、テレビで高校サッカー選手権を見て、人生が変わった。「高校生を指導して選手権に出たい」と思ったんです。

チームを強化し、プロ選手を輩出する。

——高校サッカーが、指導者としてのスタートだったんですね。
そうです。最初に指導した建国高校サッカー部は部員も少なく選手も消極的だったので、「3年間で選手権に出場する」とアピールして初芝高校に行きました。スカウトした選手たちを3年間で選手権レベルに成長させるのが目標で、その時のチームには後にプロに行った平岡直起くんがいました。
チームは強くなり選手権を狙えるレベルにまで成長したけれど、念願の3年目を前に、私は新設の初芝橋本高校へ転任することになったんです。

——また、最初からチームづくりを始めるのですね…。
高校には体育科があり選手も集まりましたが、みんな悪ガキで(笑)。徹底的に鍛えましたよ。朝練は毎日だし練習レポートも毎日提出させて、体力も技術も戦術もレベルアップさせていきました。選手たちも大変だったでしょう。でも、みんな必死に頑張って、チームは確実に強くなりました。

——やはり3年で選手権出場が目標だったのですね。
そうです。新人戦で優勝して、インターハイにも出場しました。でも、県予選では決勝で負けて、結局3年間では選手権には出られなかった。今でも悔いが残ります。
それでも当時の選手たちとは、今も私が日本に来たら会って食事をしますよ。1期生には阪南大学に進学しプロクラブを経て現在はセレッソ大阪のアカデミーコーチをしている金晃正くんもいます。
初芝橋本高校が選手権に出られたのは設立4年目で、5年目にはベスト4に進出し吉原宏太くんが得点王になりました。やがて、全国から優秀な選手が集まってくる強豪校になりました。

高校生を指導する手ごたえと魅力。

——そのままずっと初芝橋本高校を指導されたのですか?
いいえ。実は縁があって、同じ和歌山にある国際開洋第二高校に行くことに決めたんです。
小さな高校でサッカー部員は16人、ケガでメンバーが足りず野球部の選手にベンチに座ってもらったこともありました(笑)。でも、就任1年目の新人戦では決勝に進出して初芝橋本高校と対戦したんですよ。試合では逆転負けを喫したけれど、和歌山県内のたくさんの高校の中で自分が教えてきたチームが2つとも決勝に残ったんです。これまでやってきたことは間違いじゃなかった、これからこのチームをもっと強化していこうと、改めて思いました。
そんな就任2年目の秋、Kリーグの蔚山現代からコーチのオファーが届いたんです。私は16年ぶりに韓国に戻ることになりました。

——長かった日本での生活、高校サッカーを指導する魅力は何だったのですか?
高校生たちは純粋です。純粋に夢を目指しているけれど、実現する方法がわからないでいる。だからその方法を指導すると、本当に一生懸命ついてくるんです。生活の乱れもあったけれど、そんな生徒たちがサッカーを通じて上を向いて必死になって頑張る姿を見て、私ももっと頑張らなければと思っていました。
振り返ってみれば、私が指導するのは弱いチームが多かったですね。大変なこともたくさんありました。監督としてチームを指導しながら教師として担任も持ち、生徒たちと寮生活をして生活管理をしたこともあります。24時間サッカー第一の生活。さすがに忙しすぎて身体を壊したこともありました。でも、弱かったチームを強く成長させていくのは、何よりも楽しかったんです。

チーム強化のセオリー。

計画的なトレーニングと競争原理と試合データ。

——就任した高校をことごとく強化した、そのポイントは何ですか?
ポイントは、必死にやることです。
とはいえ、監督が必死に選手を鍛えてもすぐには結果は出ないし、選手には苦労したくないという気持ちもある。だからやみくもに鍛えるのではなく「このレベルの練習をしないと選手権には出られない」という明確な基準を設定し、段階的に鍛えるのです。
たとえば、練習で400mを走る場合、ただ走るのではなく目標タイムを決めます。そして、1カ月2カ月と過ぎるごとにそのハードルを上げていく。1年生はまだそう早くは走れないけれど、2年生、3年生でタイムが縮んでいきますね。そうやって、確実に体力をつけていくんです。

——目標が明確だとトレーニングもしやすいし、達成感もあります。
それから、チーム内で競争させることも、強化には大切です。
私は、多少下手でも一生懸命やる選手を起用します。能力があるのに頑張らない選手はアウトです。起用された選手は当然頑張りますね。するとアウトの選手は危機感をもって頑張るようになる。競争が生まれて、選手たちが成長して、強いチームになるんです。
とはいえ、これを私は意識的にやっていたわけではありません。実は「ハローニッポン」というNHKのドキュメンタリー番組に、私は日本の高校を指導する外国人の熱血監督として紹介されたことがあるんです。それを見て「自分はこんなふうに指導していたんだ!」と気がついたんですよ(笑)

——日本で指導される中で、韓国との違いを感じることはありましたか?
日本の選手たちを見ていると、サッカーが好きだからやっているだけで、勝利への貪欲さがないように感じます。勝つための駆け引きや戦術が欠けているんです。
私は、試合のデータを分析して数字やビデオで選手たちに見せながら、どうすれば勝てるかという戦術的な指導もしました。ただ、当時は試合データを収集したり分析したりするソフトもありませんでしたから、私は独自にポイントとなる場面をビデオでダビング・編集し、パスの数や成功率、左右それぞれのクロスの本数などの数字も集計しました。

——そんなに早くから試合データに注目されていたのですね。
当時はそんなことをやる人はまだ少なかったですね。それで、国際開洋第二高校の時には大韓民国サッカー協会の技術委員に任命されました。テレビで放映されている試合を録画・分析したり、1999年のワールドユースや2000年のシドニー五輪などにも派遣されました。そういう経緯もあって、Kリーグからオファーが来たのです。

国際試合を分析し、常に最先端のサッカーを指導する。

——では、そういったデータを活かした指導をされていたのですか?
そうです。私は、4バックで国際開洋第二高校を強化しました。
1998年のワールドカップフランス大会で、アジアの国々はグループリーグを突破することができませんでしたね。当時ヨーロッパの強豪国では4バックが主流でしたが、韓国は伝統的な3バックのマンツーマンディフェンスだった。合理的な4バックのチームと対戦すると、攻守の切り替えが遅く体力の限界もあって、試合の主導権を握れませんでした。
Kリーグの蔚山現代に行ってからも、私は4バックでラインを上下させながら素早く攻守を切り替える指導を行いました。フース・ヒディング監督が韓国代表に就任したのはその頃です。ヒディング監督も代表で4バックを試みましたが、なかなか定着できませんでしたね。それでもワールドカップ日韓大会ではベスト4に入る快挙でした。

——その蔚山現代を辞められて大学に行かれたのはなぜだったのでしょう。
崩壊寸前のサッカー部を立て直してくれと、母校の成均館大学サッカー部から監督の要請があったんです。蔚山現代のコーチになって2年目のことでした。それから退職するまでの13年間に、優勝2回、準優勝3回、3位2回。韓国大学選抜の監督としてデンソーカップや国際大会にも出場しました。

——素晴らしい実績です。大学で監督をされながらもサッカーの分析は続けられていたんですか?
大学の試合はもちろん、国際大会でも分析を続けていました。韓国のテクニカル・スタディ・グループの一員としてワールドカップにも派遣されましたよ。2006年のドイツ大会でも2010年の南アフリカ大会でも、たくさんの試合を見て分析しました。
トップレベルの試合を分析すると世界のサッカーの流れがわかって、今、何を指導するべきなのかが見えてきます。世界トップの戦術はどんなものか、それを目指すためにはどうレベルアップすればいいか。

——監督が指導されるのは、世界基準のサッカーなのですね。
私は常に選手たちに最先端のサッカーを指導してきました。そのために、朝から厳しい練習をしましたし、戦術ミーティングも行って、試合後には「なぜ勝てたか」「負けた理由は何か」を必ずレポートに書かせました。勉強する姿勢がなければ選手たちはついてこれません。1年生はミーティングが眠たくてしょうがないみたいですね。でも、2年生になればミーティングもレポートも熱心に取り組むようになります。そうして成均館大学は強くなりました。私は2015年で退職しましたが、今でもまだ強いですよ。

阪南大学は、優勝を目指す。

臨時コーチとして招聘された理由。

——阪南大学とはいつから交流があるのですか?
成均館大学は、2004年から阪南大学サッカー部と交流試合を行ってきました。お互いに遠征しあい、2週間ほど合宿して試合をします。
阪南大学の選手たちは上手い。テクニックに優れていて、成均館大学の選手はよく抜かれていました。でも、対戦していくうちに、こちらも少しずつ対応できるようになってくる。お互いに切磋琢磨して、強くなっていくんです。

——では、今回単身で来日されることになったきっかけは?
定年退職でフリーになった私に、須佐監督から「臨時コーチに来てください」と連絡があったんです。
ここ数年は交流戦の機会がなくチーム事情はよく知らなかったのですが、阪南大学は強いチームですから、臨時コーチといってもチームを見た感想を話すくらいだろうと軽い気持ちで引き受けたんです。でも、久しぶりに見た試合で、阪南大学サッカー部は私が思っていたチームとは違いました。

——どう違っていたのですか?
かつて交流戦の時に感じていたピリピリした緊張感が、このチームにはありませんでした。一人ひとりは確かに上手くて1対1には勝てるんですが、相手もそこは研究していて人数をかけてボールを奪いに来ます。それなのに、まわりの選手は誰も助けに行かない。自分のポジションにいてパスを待っているだけ。自分のプレーさえしていればいいと思っているんですよ。後ろから声を出すシーンもほとんどないし、積極的にボールを奪いに行ったり泥臭く身体を張るプレーもあまり見られません。チームとしてプレーできていないんです。
阪南大学が目指しているのは優勝です。でも、今のままでは難しい。

——優勝するためには、課題が多そうですね。
個の力は強いけれどチームプレーの意識が欠けているのが今の阪南大学です。でも、サッカーは一人ではできません。トップを目指そうと思ったらチームプレーは絶対必要です。関西学院大学はそれをやっています。
優勝するためには、サッカーのレベルもモチベーションも人間性ももっと上げていかなければいけないと思いました。監督はその危機感を持って、チームを守るために私を必要としてくださったんです。だから私は、たとえ嫌われても、チームを見て感じたことは全部話そうと思いました。
残された時間の中で、臨時コーチという立場で、どこまでレベルを上げていけるか。それは私にとっての勝負でもあります。

自分を知り、相手を知ること。

——阪南大学が優勝するために必要なことは何ですか?
自分の限界を知ることです。今、阪南大学は狙われています。阪南大学に勝つために研究して、一人で突破を試みる選手に組織で崩しにきています。メッシだったら2人3人に囲まれても一人で打開できるでしょう。でも、阪南大学の選手はメッシじゃない。まず、自分の限界を知り、相手を知らなければ。そうすれば、今まで通りでは勝てないことがわかるし、危機感も生まれます。チームプレーの必要性もわかるでしょう。

——その危機感は、選手たちの中にめばえてきていますか?
今はまだ、選手たちは迷っている気がしますね。でも「このままでは全国で通用しない」ということは感じていると思います。それに、チームの中に少しずつ競争も生まれてきています。Aチームだけではなく、Bチームの選手たちの活躍も頼もしく感じています。

——課題であるチームプレーをするために、選手たちにはどのような指導をされているのですか?
チームプレーができていない理由は二つあります。一つは、チームプレーが必要な局面でどう動いていいかわかっていない。だから、自チーム・相手チームを分析し、どういうサッカーをしたらいいかをミーティングで徹底して指導します。この時は、言葉だけではなく「視聴覚」で伝えるのがポイントですね。試合のデータを示すとともに、画像を使って「こういう場合はどう動くか」を具体的に指導します。こうすれば、やるべきことが理解しやすくチームとしての意思統一がはかれます。

——これまで世界のサッカーを分析し指導してきたノウハウを、阪南大学で実践されているんですね。
でも、そうやって頭で理解できていてもプレーで実践できるとは限りません。むしろ試合では一瞬の判断が求められますから、どうすればいいか考えている余裕はないんです。ミーティングで理解したプレーが、試合では無意識にできなければいけない。そのためには意識的な反復練習が必要です。サッカー部での練習だけでは身につかないと思ったら個人練習もしなければいけないのに、そこが足りない。それが、チームプレーが実践できていないもう一つの理由です。もっと誠実に真面目に努力しなければ。

——厳しいですね…。でも、これだけの指導を受けられるなんて幸せです。
でも、どんなにいい指導をしても、キックオフの笛が鳴ったら戦えるのはピッチの11人だけ。ベンチワークもあるけれど、監督やコーチができることは限られています。どんな局面も自分たちで解決しなければいけない。だから、指導者と選手はもちろん、選手同士ももっともっと話し合って欲しいです。自分はどんなことができるか。チームメイトに何を望んでいるのか。もっと話し合ったらいいと思うんです。
チームプレーをするためには後ろからの声も必要です。守備から攻撃へ、攻撃から守備へ、長い距離を献身的に走らなければいけない時もあります。身体を張ったプレーが求められることもあるでしょう。そういうことを率先してやる選手がいれば、チームも変わっていきます。阪南大学はそこが中途半端なんだけれど、今、少しずつ変化は感じます。

——今回の来日は、阪南大学サッカー部を次のステップへ導くものであったかと思います。姜さんにとっては、今回の来日はどのような意味がありましたか?
来日して最初にサッカー部のみなさんに「教学相長」という中国の言葉についてお話しました。人を教えることと人から学ぶことは相互に作用するもので、両方を経験することでさらにレベルアップすることができるという意味です。
今回、限られた時間の中でいかに効果のあるものを選手たちに教えて結果を残すかが、臨時コーチとしての私の使命でした。でもそれは、私にとっても素晴らしい勉強になりました。今回、こういう機会を与えてくださった須佐監督には心から感謝しています。私にとって本当に価値ある経験になりました。

——では最後に、姜さんのこれからの「夢」を教えてください。
韓国の大学は55歳が定年なので、私の人生にはまだ十分な時間があります。今は、これまでの経験を整理する時間だと思っています。その中で、これまでの監督経験で培ってきたノウハウを、指導者を目指している人たちに伝えたいと思っています。また、今私は子どもたちのサッカー教室を開いていますので、子ども向けのサッカーの指導方法を本にまとめたいですね。そしてもうひとつは、プロチームの監督をすることです。蔚山現代ではコーチでしたしその後はずっと大学サッカーを指導してきましたから、次はぜひプロに挑戦したいと思っています。
文:紀井美知緒(one制作チーム)